2014年12月12日

小休止。

「冬の雫」

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最近はブログの更新が疎かになっている。思うところがありTwitterを始めた。息子に会社の代表の椅子を譲り、新体制になったので、ホームページを含めて新しい動きをしたい。

ということでブログは小休止。近いうちに再開します。
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2014年12月07日

覚醒。

「朝」

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インドの聖人プンジャ(パパジ)、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、禅僧ティクナットハンとの出会いはまさに鉄人に覚醒をもたらしている。

ティクナットハンを除き彼らは仏教徒ではない。ではないがその教えの本質は仏教と異ならない。何が異なるのかと言えば、それは鉄人の捉え方にある。

既成の仏教よりも彼らの教えの方がシンプルなのである。仏陀の教えはあまりにも膨大で、その教えの全貌を鉄人の頭では到底捉えきれない。

下手をすると仏教の知識の収集で今世を終わらせてしまう。例えば道元の正法眼蔵の解読のみでこの人生が尽きてしまう恐れがあるのだ。一切経に至っては読むだけでも約20年掛かる計算になる。

鉄人がパパジに傾倒したのは、その教えが真理の核心のみに傾注したものだからである。その核心とは次のことばになる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あなたはすでに「それ」なのだ。

修練をして真我になるのではない。修練をするのは自我でしかない。努力を棄てなさい。あるがままに在りなさい
。一つの想念も起こさずに、ただ静かにしていなさい。

そうすれば、世界の現れも真理の探求もすべては自分の心の投影でしかなく、束縛も、解脱も、解脱を求める人も存在しないという究極の真理にあなたは目覚めるだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「それ」とは、「真我」、「空」、「神」になる。元々「それ」なのである。鉄人は修練して、努力して「それ」に近づこうとしていた。しかし元々「それ」なのだから、それに気づけば良いことになる。

自我である自分の心の投影、想念が世界を創造しているのだ。しかし変化消滅するものに本来自我はありえない。普遍の自分がいるという錯覚は、周りの環境が作り出した幻想にしか過ぎない。だから無我なのである。

無我ならば、束縛も、解脱も、解脱を求める人も存在しないことになる。また生まれることも死ぬことも無い。それも想念だからである。ならば、あるのは、「真我」であり、「空」であり、「神」ということになる。鉄人は、元々「それ」だったのである。

我々から真理を隔てているのは、思考で現れた想念である。想念が「苦」の原因なのである。想念がないところに「苦」は存在しえない。真の幸福とは、「苦が存在していない状態」と換言出来る。

あなたはすでに「それ」である。この言葉によって、鉄人は真我に覚醒したのである。 






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2014年11月18日

私は神。

「神在月」

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インドの聖者「パパジ」(プンジャジ)をYouTubeで知り、その説法会の様子に感銘を受けたので、その師「ラマナマハリシ」や「シュリ・バガヴァン」、平和運動家である禅僧「ティク・ナット・ハン」などのYouTubeを立て続けに観ている。

教えは結局皆同じである。それは「我々の本来の姿は『神』である。」ということである。それは別の言い方をすれば、「空」、あるいは「真我」。

鉄人の「私は誰?」という問いを何十年も探し廻った末の答えは、「私は『神』である。」というものだった。そう、青い鳥は自分の中にいたことになる。しかしここで言う「私」は、「I」ではない。仏教の「無我」は「わたしというものは実体ではない。」というものだ。

パパジの教えでは、「私」は想念の蓄積したものになる。生まれたばかりのときには「私」という概念はなかった訳で、想念が蓄積されることに従い、何時の間にか徐々に「私」という概念が構築されていくことになる。逆に言えば、想念を積み重ねる環境がなければ何時までたっても「私」という概念は構成されず、従って「私」は存在しないことになる。

「私は『神』である。」という実例としてパパジは次の様に説かれた。夜、我々は眠りにつく。深く眠っているときすべての世界は存在するだろうか。我々はそれを認識できない。寝ているときは「無」である。

やがて朝になり目が覚める。日常の世界に舞戻る。我々は認識するのである。すべての世界は、我々自身が寝ているか起きているかで決まることなのだ。

そして起きていて認識できる世界も、自分の五感(見る、聴く、臭う、味わう、触れる)範囲内でしか認識出来ない。隣の家のことでさえ自分が感じる五感の範囲だけしか知り得ないのである。

パパジは、深く寝ているときは世界は消え、起きることで世界は現れると表現された。世界は自分の五感が作り出した幻だと言えるのではないだろうか。

その幻を創造している者は誰なのであろうか。それが「神」あるいは「真我」、「空」。ということになるのではないか。

我々と一体である「神」、「真我」から我々を遠ざけているもの。それが想念だとパパジは説かれる。その想念が新たな生になり輪廻転生を繰り返し、また同時に「苦」を繰り返す。

「何もしてはいけない。ただ静かでいなさい。」というパパジの教え。我々の「真我」が「神」であるのなら、何処にも行く必要はなく何かをする必要も無い。ただ想念を湧かせず静かにしている」ことなのである。

今まで仏教で学んできたことを、よりシンプルに理解出来た様に思う。「神」、「真我」、「空」でさえ概念なのだ。「ただ静かでいる」こと。我々は自分の中に「神」を静かに見ることも無く、生きることにバタバタし過ぎている様に思うのだ。







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2014年11月14日

最近のやっちゃった。

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第一弾 

少し前、鉄人が撮影した広告写真が新聞に載った。上に出ている写真である。その日の朝、鉄人は何時もの様に新聞を読んでいた。この写真が載っているページも読んでいた。にも関わらず、この写真に全く気がついていなかったのだ。

結構大きな扱いなんだけどね。後でかみさんに言われて初めて気がつく。何処を観てたんだろう。


第二弾 

広大病院での出来事。その日、広大病院で医師の撮影があった。しばらくぶりで行ってみたら随分様子が違う。本館の建物が新しくなっているのだ。ちょっと離れた駐車場に車を停めたのだが、よく見ると本館の建物の横に駐車場がある。撮影場所は本館の中なので、あっちの駐車場が建物に随分近い様だ。
 
鉄人、一旦停めていた駐車場を出て、その建物の近くにある駐車場に向かった。着いてみると満車だ。もう少し奥にある駐車場に向かう。ここも満車である。更に奥にある駐車場まで行ってやっと停められた。

停められたのは良いのだが、最初の駐車場から建物までの距離より倍以上あった。重い撮影機材を引きずりながらトボトボと撮影場所である本館まで歩く羽目になったのである。


第三弾 

あるパン工場での出来事。パンの撮影の為に工場の駐車場に車を停めた鉄人は、何時もの様に撮影機材を車から出していた。ところがストロボが入っているバッグが見当たらない。車の周りを見渡しても無い。そんなはずはないのだ。撮影の準備は前日の夜に行い念入りに確認もしている。

でも無い・・・ものは無い。冷や汗が全身から出てくる。ストロボはカメラの次に大事なものだ。ストロボなくしては商品写真は撮れない。今日のクライアントは新しい取引先で信用に関わる。どうしよう。まず家に電話し息子にそのことを伝える。そしてストロボを急いで持ってくる様に頼む。

まずいことにそのときの撮影場所は我が家から一時間もかかる場所であった。渋る息子。だがとやかく言っている場合ではないので、何とか持ってくる様に頼んだ。ところがである。その肝心のストロボがスタジオに見当たらないらしいのだ。

「???何で無い?」。そのときである。一緒に来ていたかみさんが何やら黒いバッグを抱えてこちらに向かってくるではないか。そう、ストロボが入ったバッグである。

実はその撮影を依頼していたクライアントも来ていて、親切にも鉄人のバッグを撮影場所まで先に持っていってくれていたのである。

そのことを全く知らなかった鉄人は顔面蒼白、茫然自失、冷汗一斗になったという訳である。ストロボがあって良かったのだが、この事件の動揺は撮影が始まってもしばらく続いた。本当に心臓に悪い。


第四弾 

今度はかみさんが主役である。ある仕事でモデルさんを撮影することになった。背景にキレイな景色を持ってきたいというクライアントの希望で、紅葉が真っ盛りの場所が選ばれていた。

行ってみたら確かに紅葉が見事な渓谷で、真ん中に吊り橋が架かっている。吊り橋を渡ったところに景色がキレイな場所があるというのでその吊り橋を渡ることにした。

そのとき想定外のことが起きたのである。かみさんが吊り橋を渡れないのである。鉄人のかみさんは高所恐怖症だったのだ。

まさに一歩たりとも進めない。まったくのお手上げ状態である。仕方が無いので鉄人とモデルさんふたりで吊り橋の向こうで撮影することにした。レフ板持ちで連れてきたのにこれじゃ意味が無い。考えてみれば、かみさんは歩道橋を渡るのがリミットだったのである。
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2014年11月04日

道の駅巡り。

「睡蓮」

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昨日一昨日とかみさんの田舎に帰っていた。毎日鉄人の母の面倒を見てくれている気苦労に対する気分転換と、かみさんのご両親をドライブに連れて行く為である。

特にかみさんのご両親は橋の無い島に住んでおられて、車の免許もお持ちでない。自然、普段は活動の範囲も狭くなるので、旅行とかドライブがお好きなのだ。

旅行までお連れするのはご高齢ということもあり簡単にはいかないのだけれど、ドライブなら鉄人でもお連れ出来る。ということでかみさんと四人でドライブをすることにした。

ドライブの日の一昨日は生憎の悪天候であったが、かみさんとご両親は「道の駅」が大好き。そこで備後地区の道の駅巡りを鉄人が計画、朝9時に竹原港でかみさんのご両親を拾い北に向かい出発した。

予定の道の駅は5カ所。状況に合わせて増減を決める。道の駅から次の道の駅まではご両親が疲れない様に一時間以内、正午に食事が出来る大型の道の駅に着く様に段取りする。

雨は降っているし、ご高齢のおふたりを乗せている。運転には気を使う。実は鉄人病み上がりだったのである。数日前に息子から風邪を移され体調を崩していた。ドライブ当日は大分風邪も治っていたのだが、まだ完治していなかった。

たまに咳が出るのでマスクを着用、おふたりに風邪が移らない様にと出来るだけ咳が出ない様に我慢。ドライバーもなかなか大変である。

途中から雨も小止みになる。雨だったからか道の駅の利用者もそんなに多くない。買い物は存分に楽しんでくれた様だ。鉄人は相変わらず買い物には興味が無い。でも町のスーパーでは有り得ない様なでっかい椎茸とか葉っぱがまるまる付いている大根とか、見たことが無い野菜などが売ってあり、それらを見て回るのはそれはそれで楽しいものである。

お昼は田舎料理のバイキング。ホントに素朴な田舎料理だったがなかなか美味い。これも道の駅ならではの楽しみである。

ドライブの後はかみさんの実家に一泊、夕食に早速道の駅で買ったものを食べる。美味いものもあれば、信じられないくらい不味いものもあった。

話の中心はやはり不味いものへの悪態である。「何でこんな不味い押し寿司を売るのか。」「ホントに不味い!!
」「信じられない!!」

これが旅の醍醐味なのだ。この先、今回のドライブの話をするときに必ず真っ先に出る思い出話は、この信じられないほど不味かった押し寿司のことである。

鉄人が食べても確かに不味かった。でもその不味さを共有した者だけが楽しめる思い出である。不味くて良かったのかも。

かみさんのお陰で鉄人は何とか真っ当な暮らしが出来ている。そしてそれは働き者のかみさんを生んでくれたかみさんのご両親のお陰であるのだ。

本当に感謝しかない。ドライブくらいではとても恩返しにはならないのである。


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2014年10月31日

覚醒の炎。

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プンジャン(パパジ)の教えを編集したこの「覚醒の炎」という本は、鉄人にとって第二の「アーチャン・チャー
」として、これからの人生に多大な影響を与えそうだ。

たまたま観たYouTubeのパパジの映像に興味を引かれた鉄人は、早速パパジの教えを扱った本を取り寄せた。YouTubeの教えは、和訳の字幕スーパーがあるのもあるのだが、多くはそれがない。折角縁があってパパジを知ることが出来たのに、英語が分からずその教えを深く理解出来ないのはあまりにも勿体ない。

ということで和訳の本が一冊あったので購入することにしたのだ。四百ページに近い結構分厚い本だが、問答形式で書かれてある。質問者がパパジに質問して、パパジがそれに答えるものだが、これは釈尊の説法にも通じるものである。

質問者はそれぞれ生きてきた背景も経験も知識も能力も異なる。それぞれの個性に合わせて行う対機説法は、質問者を納得させる為には最も適した方法だと鉄人は思う。

遠くインドまで出かけて質問する人間のタイプの多くは「こころ」「精神」に関心が高い人々である。その彼らの最大の関心事は「わたしは誰」というものだ。

自分自身が分からないのである。鉄人もそうだ。小学四年のとき「自分は誰なんだ?」という疑問を抱いてから今日まで、その答えを求めて生きているのである。

仏教に触れ、その答えは見つかってきている。理論的にはかなり理解しているつもりである。だがまだ自家薬籠中にはなっていない。こころがまだ平安ではないからである。

相変わらず悩み苦しみ怒り動揺する。「瞑想」も「禅」も自分なりにやってはいるが、瞑想や座禅の最中だけこころが平安でもあまり意味が無い。常に平安でなければならないと思うのだ。

パパジは、「何もしてはいけない。ただ静かでいなさい。」と説かれている。これがパパジの教えの結論である。でもまだその真意が理解出来ていない。現在四分の一ほど読んだ。読み続けているうちに鉄人に何が見えてくるのか。

パパジもアーチャン・チャーバンテーも最高の笑顔をされる。この笑顔、信じられるのである。



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2014年10月28日

ワシに監督やらさんかい!! 投手編

「パセリ」

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さて投手陣だが、こちらはかなり心配である。計算出来るピッチャーが少ない。マエケンが出ないとすれば、彼は計算が立つ。後、大瀬良も怪我さえ無ければ多分大丈夫だろう。ふたりで、25勝〜30勝行きたい。

後は全く計算が立たない。バリントンは居るかどうかも分からないが、バリかフィリップスとヒースで15勝前後か。福井と九里と野村で15勝、リリーフ陣でトータル10勝。

全部合わせて約70勝、5〜10勝足りない。不安材料はまだある。リリーフ陣が今年のフル稼働の余波で、来年は今年ほど活躍できないのではないかという懸念である。

今村の例を出すまでもなく、リリーフ陣が毎年コンスタントに活躍するのは困難である。大車輪の活躍をした一岡や中田、中崎は今年の疲労が必ず残る。横山は引退し永川には多くを期待できない。最後を任せるピッチャーも決まっていない。

ドラフトでも即戦力の投手は採れていない。もしマエケン、バリ、ミコが出てしまえば、実績のあるピッチャーが相当いなくなるという緊急事態なのだ。

新顔が大活躍するということはあるのだが、ふたを開けてみないと分からない。来年のカープは投手陣の方は結構苦労するのではないかと鉄人名誉監督は心配しているのである。

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2014年10月26日

パパジ。

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今日は午後から散歩に出かけていた。道元に興味を持ち近くに禅寺がないかと探していたら、観音台の上の方に「観音寺」という曹洞宗の寺があることを知った。

我が家からは約1時間の道のりである。曇っていて雨が心配されたが、同行するかみさんが「晴れ女」なので、それを信じて出発することにした。

観音寺は結構山の上にありいささか疲れたが、この寺は別名「花の寺」と呼ばれていて(あじさい寺とも呼ばれている)、一年の多くの期間、様々な花を楽しめるそうだ。

帰ろうとしたとき、寺にいたおばさんに呼び止められる。これも縁だと思い15分ほど雑談していたのだがこれがいけなかった。帰りの道中、雨が降ってきたのである。

雨の中を歩いた時間は15分ほど。ちょうど呼び止められて話をしていた時間分である。「お茶も出なかったし、話さなきゃ良かったね。」と、かみさんは愚痴る。

今日は比較的温かったので助かった。鉄人には良い思い出になった。

話はガラリと変わるが、YouTubeでパパジという方の動画を偶然見つけた。インドの聖者らしい。パパジの師は
ラマナ・マハルシ。この師の本は読んだことがあるので興味を持った。

動画の内容は、弟子に向かっての説法の様だがこれが素晴らしい。真理をとても分かりやすい言葉で説かれている
。穏やかでユーモアがあり一目で人格者だと感じた。

話の内容は釈尊の教えと変わらない。真理は誰が説いても同じだからだ。方便が異なるだけである。ご興味のある方は、パパジの動画をご覧いただきたい。

https://www.youtube.com/watch?v=ddSLbrwGqLY

https://www.youtube.com/watch?v=oMj_txh6ztc

https://www.youtube.com/watch?v=iuCClgCRJek

https://www.youtube.com/watch?v=H14cQg1jTcs

https://www.youtube.com/watch?v=qYAosfgqDGY
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2014年10月25日

ワシに監督やらさんかい!! 打者編

「大水車」

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日本シリーズはまだだがドラフトも終わり今年のカープは終了した。来年は本気で優勝が狙えそうな実力がチームに付いたと思う。

今年、優勝が出来ず二位も逃した原因を探ってみた。来年優勝を確実なものにする為には、今年優勝出来なかった原因を調べそれを解決するしか無い。

鉄人が思うには、今年のカープは勝負どころの試合をすべて落としている。1ゲームまで迫った巨人戦。勝つか引き分けでも2位が決まる阪神戦。クライマックスシリーズ。いずれも打てなかったのが敗因だ。

今年のカープは打撃が好調だったにも関わらず肝心なときに貧打で負けているのだ。何が足りなかったのか。それは経験だと鉄人は分析した。

大勝負の時ほど経験がものを言うと思うのだ。カープ打線は若い。ベテランもいることはいるが、優勝を争う様な経験を今まで十分にしてきたかと言えば否である。長い間下位にいて大勝負の経験があまりないのだ。

カープは打撃自体は良いのだから、一枚〜二枚代打専門の大物ベテラン選手を他球団から採りたいところである。

もうひとつ。打線は好調だったのだが、日替わりの打順はいただけない。打順にはそれぞれの役目があるのだ。一番バッターには一番の。二番には二番の。それ以外もしかり。それぞれの役目を理解しそれを形にするのにはやはり経験がいる。

猫の目打順ではそれを十分に果たせないと思う。事実シーズン終盤の勝負どころの試合で打順を組み替えて失敗している。

で、鉄人監督は来年の先発オーダーを作ってみた。

一番   田中     ショート
二番   菊池     セカンド
三番   丸      センター
四番   ロサリオ   レフト
五番   松山     ライト
六番   エルドレッド ファースト
七番   會澤     キャッチャー
八番   堂林(鈴木) サード

いかがか?一番から六番までジグザク打線。エルドレッドの長打力は魅力だが、四番としては荒い。六番に置くことでクリーンナップをふたつ組めると考えた。

田中、菊池、丸は俊足巧打、また野球頭が良い。ここを固定することでカープ野球を浸透させることが出来る。四番ロサリオも状況に応じたバッティングが出来るし長打力がある。今年の成績も悪くない。馴れてくると大化けするかも。

松山は大きいのも打てるしシュアなバッティングが魅力だ。足がもう少し速ければ良いのだが。エルドレッドを六番に置くことで相手のチームが嫌がると思う。彼も六番の方が気楽に打てるだろうから、長期のスランプが減るのではと期待している。

會澤は捕手だが元々バッティングが良い。八番より七番の方がチャンスに巡ってくることが多いのではないか。八番は堂林か鈴木誠也。鉄人は以前より鈴木を買っているがまだ経験が足りない。堂林は不安定だが意外性がある。八番で気楽に打たせて経験を積ませたい。

代打陣は、梵と廣瀬のベテランに期待したい。ふたりともバッティングが巧い。体力的にも休ませながら使う方がコンスタントに成績が残せると思われる。小窪も勝負強い。守備もいける。上手く使いたい。

他に木村や新外人グスマン、新人の野間もいる。なかなか選手層が厚い。打撃陣は十分優勝を狙える陣容である。





  



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2014年10月24日

善と交われば善になる。

「峠に御座す」

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「人の心は決定(けつじょう)、他人の言葉に随(したが)ふと存ず」。人間の心と云うものは、周りにいる他人の言葉によって容易く左右されてしまうと道元は諭す。「朱に交われば赤くなる」というやつである。

こうも説いてる。「悪人に近づけば、我心にも初めは悪しきと思へども、終にその人の心に随(したが)ひ馴(なる)るほどにおぼへず、やがて実(まこと)に悪しく成(なる)なり」。悪い人間ばかりとつき合っていると、最初は「こいつらは悪い人間だ」と思っていても、慣れてくるにしたがい、だんだんとその様な批判的な眼を無くしてしまい、最後は自分の心まで本当に悪くなってしまうものだと。

だから「縁」というものは本当に大切なものなのである。縁は自分で選ぶのだ。「故にいかに元より悪しき心なりとも、善知識に随(したが)ひ良人(りょうにん)に馴るれば、自然に心も良くなるなり」。

善き指導者や善人と馴れ親しんでいれば、自然と自分の心も良くなるということだ。その通りだと鉄人も思う。鉄人の心も弱い。何時もフラフラしている。悪の心も勿論持ち合わせている。善悪どっちに転ぶかは、どのような人たちと普段つき合っているかで決まることもあるだろう。それほど環境の影響は大きいと言える。

だが、経験上、善知識や良人(りょうにん)を見極めるのは意外に難しいのも事実だ。この人は善人だと思ってつき合っていた人物が、つき合っているうちに別の顔を見せ始めることもよくある。鉄人もそれで随分苦しんできたのである。

仏教を学んでいるからといって、それで良人だとは限らない。増上慢な輩もいれば、エゴイストもいる。無信心な人でもイノセントでピュアな良人も勿論いる。

鉄人の良人の基準は、私心なく他人の為に善事を尽くしているひと、ということになるのだろうか。例で言えばマザー・テレサみたいな。なかなかいないよな〜とは思う。

釈尊は、「善友(ぜんぬ)を持つことは、仏道のすべてである」と説かれている。仏道に限らず難しくてもどんなことよりも優先してその良縁を見つけ出すべきではないだろうか。

参考  遠藤 誠著 道元「禅」とは何か 第五巻 
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2014年10月22日

老舗物語。

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ものごとは続くときは続くもので、昨日また鉄人が撮影した写真が載っている見本誌が送られてきた。本のタイトルは、「ひろしま老舗物語」。最近、広島市を中心に書店で販売されている。

広島ホームテレビの人気番組「あっぱれ熟年ファイターズ」の中で取り上げられた老舗を本にしようと企画されたものだ。

鉄人だけが撮影を担当した訳ではないが、結構携わっている。実はこの企画に参加するまで、「熟年ファイターズ
」をテレビで観たことがなかったのだ。打ち合わせのとき、担当者は当然鉄人がその番組を観ているという前提で話を進められたので、鉄人が観たことがないことを知るとがっかりした表情をされちょっと気まずい思いをした。
それからはテレビでその番組を努めて観る様にしている。

本の内容は、広島県にある老舗の今昔物語と言える。創業当時の苦労話や、その後の発展などの様子を写真と文章で紹介したものである。

広島市には、何百年と続いているような老舗は少ない。原爆で無くなったからだ。だから大体50年以上を基準に「老舗」としている。鉄人、この老舗というのが好きで、仕事ではあったが大変興味深い経験をさせてもらった。

鉄人は広島の生まれではない。広島の老舗に対する思い出や思い入れは少ない。どちらかというと新しい世界を知る楽しみなのである。この本で取り上げられている老舗は、大企業から街の小売店まで大小様々である。小さな店から始まって今や知る人ぞ知る存在になった大企業もあれば、創業当時から何も変わっていない老舗もある。

それぞれが長い歴史を刻みながら生き抜いてきた訳で、それぞれに興味が尽きない。この本で紹介されている老舗は約30余り。まだまだ数多くの老舗が存在する訳で、この本に載っている老舗以外の老舗も何時の日か訪れてみたいものである。


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2014年10月21日

母とのその後。

「地蔵仏」

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ついにかみさんが匙を投げた。母に対してである。かみさんは冷静で優しい人間なのだが、そのかみさんをしても鉄人の母は手に負えない人物の様である。

鉄人と息子たちはとっくに匙を投げていたのだが、かみさんだけは辛抱強く母の世話をしていた。だが限界に来たみたいで、今日初めて母に対して啖呵を切ったらしい。

かみさんが啖呵を切ったのは、つき合い始めてから一度も無かった。そのかみさんが啖呵を切ったのである。相当腹に据えかねることを母に言われたのだろう。

来るところまで来た感じである。で、これからどうすれば良いのかを考えてみた。親子だろうが肉親だろうが、合わないものは合わない。

こちらもストレスが溜まるが相手も溜まっているはずである。この上手くいかない原因は何処にあるのかと考えてみれば、母は集団生活には向かない人間だという結論が出た。

孤独と引き換えに自由気ままに生きてきた人間を、鉄人家族という集団の中に入れ、鉄人家族のルールに従わせるのは基本的に無理なのだ。

掃除はしない、風呂は嫌い、話は聞かない、食事は自分が食べたい時に勝手に摂る。今までこれらのことを、我が家のルールに従わせようといちいち注意をしてきた。

しかしまったく直らない。鉄人は注意しても無駄だと悟ったのである。母は自分自身のルールでこれまで生きてきたのだ。掃除をしないのも、風呂に入らないのも、好きな時に食事をするのも、それが自分にとって都合が良いからやってきたことなのである。

鉄人家族のルールに従わせるのは、母にとっては不都合であり苦痛以外のなにものでもない。そして我が家のルールに従わない母を面倒見る我々も、苦痛以外のなにものでもないのである。

そこで母を好きにさせることにした。掃除はご自由に、汚くても知りません。風呂も誘いません。入りたかったらどうぞ。食事も食べたい時には声をかけてください。と、こちらの都合で世話を焼かないことにした。

その代わり、母の部屋のドアは閉める。匂いが我々のところに来ては困るからだ。こちらも客商売をしているからである。ミーちゃんも我々が家にいる時以外は母の部屋から出さない。放っておくと悪戯が過ぎるからだ。

要するにひとつの屋根の下に世帯がふたつある、いわゆる二世帯住宅にしたのである。食事は母が望めばかみさんが作ってくれる。洗濯物も出せばかみさんがやってくれる。二世帯と言っても玄関がふたつある訳でもない簡易的なものだから、母の様子は分かる。

母は孤独を感じてるだろう。不満もあるだろう。でも引き換えに無くしかけていた自由はある程度取り戻せるはずである。

元々母は幼い頃の孫を可愛がっていた訳ではなし、かみさんに協力的だった訳でもない。だから鉄人家族と仲良く出来ない今の状況は仕方が無いとも言える。因果応報なのだ。

考えてみれば、鉄人は母が老齢になり一人暮らしが心配で同居を決めたのだ。母はそれに応じたのだけれども望むものではなかったのかもしれない。取りあえずこれからはこのやり方でやってみる。結果がどのようになるかは定かではないが、上手くいくことを望むだけである。
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2014年10月20日

光と影。

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今日、鉄人が撮影した写真が載っている経済雑誌の見本誌が届いた。日本酒愛好家なら直に分かる「獺祭」の社長を撮影したものである。

「獺祭」は、旭酒造という山口県にある酒造メーカーが製造している。その人気は天井知らずで、製造が間に合わないどころか日本酒用の米の生産が必要量に届かない状態なのだ。

社長の名前は「桜井博志」。写真で分かる様に、スマートで温厚なナイスミドルという感じの方である。直接お会いしてもイメージそのままの方で、何時もニコニコされていて腰が低い。成功者にたまに見受けられる尊大な様子は皆無である。

鉄人も撮影で旭酒造を訪れることが多い。それだけ注目されている酒蔵だからだ。桜井社長は、飛ぶ鳥も落とす、まさに「時の人」と言えよう。

これだけ人気があり注目されている酒蔵の社長だから、さぞかし輝かしい経歴をお持ちの方だと想像しがちだが、実は全くその反対で、以前は自殺を考えるところまで追いつめられた経験をされているのである。

その経緯は、この雑誌「Associe」や関連本を読んで頂きたいのだが、そのご苦労は尋常じゃない。人生の辛酸を嫌というほど舐められている。

自分も含めてひとは成功者の「光」の部分だけ見ることが多い。そして憧れたり羨ましがったり嫉妬したりするのである。しかしその「光」には必ずと言っていいほど「影」があるのだ。

新規事業に失敗して多額の借金を抱えたり、時代の変化を見誤ったりと、成功の影には様々な困難も待ち受けているのである。

では成功者はその困難をどのようにして乗り越えてきたのか。桜井社長は「道理」の大切さを語られる。「どんなに努力しても上手くいかないときは、何か道理を間違えている」のだと。

鉄人もその通りだと思う。何事も何故か上手くいかないときは「何かを間違えているのだ。」

他人のせいや世間のせいにしても仕方が無いのである。自分の考え方やり方の何処かが間違えているのである。上手くいかない現実を直視して、それを修正していく必要がある。

「光」には「影」はつきものだけれど、自分が光輝く為には「影」が不可欠でもあるのだ。釈尊は、人間に生まれたときにしか修行は出来ないと説かれている。それは人間という生き物は、放っておくと悪いことばかりする生き物なのだが、反省し修正出来る唯一の生き物でもあるからだ。

桜井社長は、悪いことをされていた訳ではないが、結果が出なかったということは、間違っていたのだ。しかしそれを反省し修正されて、今日の成功を掴まれている。

鉄人が自分の人生にまだ満足が行けていないのなら、何か道理を間違えていることになる。反省し修正しなければならぬ。
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2014年10月19日

ドライブ。

「大水車」

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雲ひとつない秋空。爽やかな気候、そして日曜日。これだけの条件が揃えば必ず聞こえてくる悪魔の囁き。そう、かみさんの「何処かドライブに連れて行け」。

家でゆっくり休みたい気持ちもないではなかったが、鉄人もこの青空を逃すのは勿体ないと思い、ドライブに行くことにした。

この気候なら観光地は多いだろう。駐車場を見つけるのも苦労しそうだ。ならば渋滞していないだろう田舎にしよう。と考え山口県錦町にある道の駅「ピュアラインにしき」を目的地に決めた。

廿日市インターで高速に乗り岩国で下りる。そこから道の駅までは小一時間である。かみさんが道の駅に行きたい目的は、主に新鮮な野菜を買うことにある。

野菜は午前中にはほぼ売り切れる。朝の9時に家を出れば10時半には着く。その時間ならまだいろんな野菜が買える、という段取りであった。

ところが人生何が起こるか分からない。のっけから躓く。廿日市インターにあるETC専用のゲートが二つとも閉鎖されていたのである。

渋滞である。渋滞を避けようと思い練りに練った計画は、最初の段階で水泡に帰したのだ。なんとか廿日市インターのETCのゲートを潜り、岩国で下りようとするとまた渋滞。ETCの代わりの用紙で割引の手続きをする為の渋滞である。

ブツブツ言いながら錦川沿いの国道187号を北に走っているとある看板をかみさんが見つけた。「日本一の大水車」とある。行ったことないから観たいと言い出した。今度は寄り道である。

行くと大水車の横にそば屋があった。かみさんは大のそば好き。こんなシチュエーションでそばを食べることもあまりないだろうからと鉄人が薦めた。なかなか美味しかったらしくかみさんはご満悦だったが、還りに一言。「ここ来たことあったわ」。

そんなこんなで目的地の「ピュアラインにしき」に到着したのはお昼前になっていた。野菜ももうわずかしか残っていない。売れ残りなので買う気も失せる。仕方がないので名物らしい「さしみこんにゃく」を購入した。

後は帰るだけである。帰る方角は寂地峡を通り吉和を抜け、湯来町そして我が家のある五日市へのルートを選択する。他の車もほとんどいなくて極めて快適なドライブであった。

途中、野菜の販売所を見つける。近所の農家のおばさんたちが売る気もなさそうに座っていた。やはり売れ残りばかりである。でもかみさん手ぶらで帰るのか悔しいらしく、その売れ残りの野菜を買っていた。

家に戻って、さっき買った野菜の中から柿をひとつ剥いて食べてみた。これが抜群美味かったのだ。百円で五つあったのでひとつたった20円也。

そのたった20円は、今日のドライブを見事に締めくくってくれたのである。
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2014年10月18日

隣の芝生。

「慈雨2」

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「隣の芝生は青く見える。」とよく言う。自分が置かれた状況よりも他人の方が良く見えてしょうがない。仕事もそうである。

我々は自分の仕事で毎日苦労をしている。何か他の仕事の方が楽しそうだ。楽そうだ。儲かりそうだと思ってしまう。

そこで道元は諭した。「我が道にあらず己(おの)が分にあらざらんことを修(しゅ)するは即ち非なり。」とにかく自分の仕事に没入せよ、只今現在にベストを尽くせということだ。

「器用貧乏」は結局大した仕事の実績を残せない。人間性も中途半端の成長しか望めないのである。鉄人には耳が痛い話だ。

鉄人は長く写真の仕事をしているのだが、それ以外の仕事に浮気心が無かったかと言えば嘘になる。知人の「宇宙エネルギー商品」の店に出資したり、出資者を募って「健康食品」の会社を立ち上げたりもした。

そのいずれもが中途半端、儲かりもせず実績も残せず挫折したのだ。「隣の芝生が青く」見えていたのである。

遠藤弁護士は語る。「人間一芸に秀ずれば百芸に秀ず」。ひとつのことを掘り下げて超一流のスペシャリストになれば、人間味豊かな人物になれる。そういう人物は他のことに対しても的確な意見を述べることが出来るのだそうである。

イチローは野球という一芸、白鵬は相撲という一芸、北島三郎は歌手という一芸、その一芸以外は素人である。しかしその一芸を極めた人物は、なんびとも認める偉人になるのだ。

右顧左眄せず自分に与えられた天職を極める。ひとつの道を極めることこそ大切だと今更ながら教えられたのである。
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2014年10月16日

鉄人はいない。

「慈雨」

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道元の言葉に「我が身をだにも真実に捨てぬれば、人によく思われんと謂(おも)ふ心は無きなり」というものがある。

己というものはいないと思えば、人によく思われたいとかという気持ちは起きない。人によく思われようと望むのは、自分というものがあると思っているからだと道元は諭す。

遠藤弁護士は、以前「暴力団対策法」に反対し暴力団の弁護を引き受けたことがある。その為世間から大変な非難を浴びた訳だが、「法の下の平等」は暴力団とて同じだと断固として国家と戦っている。その弁護料は受け取っていない。

遠藤誠という人間は幻でありこの世に存在しない、となればどれだけ世間から非難されても平気なのだと遠藤氏は述べている。

人からどう思われても構わないが、その行為は「人の為に善事をなす」ことでなければならない。しかし見返りは求めない。カネも名誉も命もいらず善事をなす生き方をしている人間には、怖いものなど何もなくなる。これが最も素晴らしい生き方だと道元は説かれたのである。

「諸行無常」すべてが変化するものに実体があるはずもない。鉄人もまた現象であり幻なのだ。遠藤氏は道元に触れそれに気がついた。そしてそれを実践により体現したのである。

鉄人も気づいてはいる。でもなかなか我執を捨てきれないでいる。「人の為に善事をなす」ことでそれを突破していきたいと思う。

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2014年10月14日

貧乏が一番良い?

「夕暮れに咲く」

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最近、遠藤誠氏著の「道元『禅』とは何か」を読んでいる。難解な道元の名著「正法眼蔵随聞記」を現代語に訳してあり、我々にも正法眼蔵のエッセンスを理解出来る様にしてある好著である。

遠藤誠氏とは誰ぞや?彼はあのオウム真理教事件で、教団から弁護を依頼された辣腕弁護士である。若い頃は放蕩三昧で自殺未遂まで起こしているが、仏教に触れ生まれ変わったという。

この本は抜群に読み応えがあるのだが、その中に「貧乏が一番良い」という道元の教えが出てくる。「衲子(のっす)の用心は仏祖の行履(あんり)を守るべし」とある。

「衲子」とは仏教者(禅者)のことで、「行履」とは、生き方死に方のことになる。「仏道を歩む者は、釈尊の生き方を守りなさい」ということだ。

その釈尊の生き方が「第一に、先ず財宝を貪るべからず」なのだ。釈尊は全く財宝を貯えられなかった。その生き方を我々弟子たちも倣うべではないかと道元は問うたのである。

遠藤氏は弁護士である。彼の元に来る依頼のすべてがカネや財産のトラブルだと述べている。要するに持っているから人と喧嘩になるという事実を、彼は職業柄嫌という程思い知らされている。

その彼が同意した道元の言葉には抗い難い真理の響きがある。生きる為に必要な最小限の収入があれば事足りるのだ。

「いまだに財宝に富み豊かにして仏法を行ずるとは聞かず」。金儲けと仏法を実践することは、相矛盾していると道元は喝破したのである。

鉄人も小遣いも貰わないし、買い物もほとんどしない。私物はパソコンと本くらいのものである。そのパソコンも本も他人が見よう思えば何時でも見れる。鍵などないのだ。

何か不足かと言えば、個人的には特に不足は感じない。欲を出せばキリが無いが本当に必要なものは何だろうかと考えれば、物質的なものでは思い浮かばない。もう足りてるのである。小学生より何も持っていないけど。

釈尊は元王子、道元は公家の出、遠藤氏は儲けようと思えばいくらでも儲けられた凄腕弁護士。それぞれがそれを捨てている。「貧乏が一番良い」、う〜む、やっぱりカネは欲しいが分かる気はする。
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2014年10月11日

お神楽。

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今夜は近所の八幡神社でお神楽をやっていた。毎年行こうかどうしようかと迷うのだが、お囃子に誘われてやっぱり今年も観に行くことにした。

まずはワンカップ酒を購入する。約15分ほどの道すがらそのワンカップ酒を飲むことで、日常の感覚を麻痺させ幻想の世界へ誘われていく。

ポケットに入れたスルメをかみさんとふたりで分けながら、お神楽の舞台である八幡神社にゆらりゆらりと向かうのである。

今夜の神社は何時もより観客が多い様な気がした。多分、連休の終わりの方は台風の影響で外出もままないだろうから取りあえず今夜楽しもうという気持ちなのかもしれない。鉄人夫婦がそうだった様に。

鉄人は神楽そのものには特に興味はない。老若男女が神社という場所に集まり、非日常の世界を楽しんでいるのを俯瞰気味に観ているのが好きなのだ。

親子が金魚すくいしている。フライドポテトの夜店に大勢並んでいる。舞台の裾に子どもたちが集まっている。舞台では夜叉が舞っている。それはまるでひと時の幻想の世界である。

今、NHKの朝ドラで外国人の女優が主人公の「マッサン」をやっている。そのドラマではやたら抱擁のシーンが出てくる。鉄人も本名が「正弘」だから「マッサン」である。

なのでドラマの真似をして、酔いにまかせてかみさんの肩に手を回してみた。これがドラマみたいにはいかない。
普段やっていないせいか即座に却下。鉄人の手はお神楽の夜叉の様に宙を舞ったのである。

小一時間ほどして家路につく。還りは二本目のカップ酒を開ける。暗い夜道を小さな子どもを連れた家族が帰っていく。幼子がしきりに親に話しかけている。お神楽の話だろうか。

ほろ酔いでゆらりゆらりとそぞろ歩く。もう一度かみさんの肩に手を回す。やはり却下であった。
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2014年10月09日

ハイテンション。

「秋の陽」

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今、鉄人の仕事は繁忙期の真っただ中なのだが、その分身体がキツイ。疲れが溜まって体中がゴワゴワになっている。

今日は繁忙期の仕事の中でもかなりハードな仕事をしていた。朝から始まり撮影終了予定は、夜の9時か10時。
クライアントの担当者もその仕事時間の長さを思うのか顔が暗い。鉄人も体調が優れない。

予定通りに終われるかどうかも怪しい雲行きである。さて、結果はいかに。結果は何と夕方6時には完全に終了したのである。

鉄人は気持ちを無理矢理ハイテンションに持っていき、ギアを2〜3段上げフルスピードで撮影をすることにしたのだ。疲れた身体でダラダラ仕事をやったら効率が悪くなり時間も掛かり、もっと疲れて結果も良くはならない。

こういうときは気持ちを奮い立たせてテンションを上げるのだ。鉄人は元々撮影のスピードはもの凄く速い。ただ何時もなら万年疲労なのでチンタラやることになる。そこで疲れを感じる暇がないほどギアを上げてみることにした。

ギアを上げるということは集中力を上げるということである。脇目も振らず目の前の商品の撮影に没頭する。不思議なことに集中力を上げると迷いも無くなる。その商品を撮る為のベストな方法が瞬時に出てくるのである。迷いがなければ仕事のスピードは格段に速くなる。従って撮影時間も短くなるという訳である。

手伝ってくれてるかみさんは元々体力は鉄人の比ではない。余裕で仕事をこなしていた。

思いの外撮影が早く済んだのだが、喜んでくれたのはクライアントの担当者である。成果が同じなら時間が短い方が良いのは言うまでもない。でも自由業の鉄人にはそこら辺の感覚が疎い。

仕事が早く済んだのは良いのだがやはりしわ寄せは来た。仕事終了後は完全に腑抜けになったのである。帰りの運転の辛かったこと。集中力が欠けているので事故が心配、法定速度より遅いスピードで、帰宅時間で混んでいる山陽道をソロリソロリと帰還したのであった。





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惨敗。

「人知れず咲く」

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今日、連日撮影していた顔写真がやっと終わった。撮影より人の呼び込みと片言の英語を話さなければならないことにホトホト疲れた。

その英語だが、何とか通用すると思っていた鉄人が甘かった。全然通用しないのである。こちらから外国人に撮影の説明をしている場合はある程度大丈夫だったのだが、質問されると英語が全く聞き取れない。

take a pictureは分かるのだが、took a pictureになるとtookが聞き取れない。というかtookは聞こえているのだが、tookの意味が直に出てこないのである。

後で「ああ、takeの過去形だったなあ」と思い出すのだが手遅れである。そんなこんなで外国人に質問される度に鉄人の顔は赤くなったり青くなったりはたまた白くなったりと、まるで人間カメレオンといった具合であった。このときその無様な様子を近くで見ていた人物がいた。かみさんである。実にカッコ悪い。

考えてみればここは日本なのだからネイティブな英語で質問する方がおかしい。ほとんどの日本人が分かるはずないのだ。ところが不味いことにこの企業の日本人社員は英語が堪能な人が多い。普段から日本人と英語で会話しているのでカメラマンも英語が分かると決めつけている訳である。

この会社が特別なのですよ。外国人の方。周りが皆英語を話していると、英語がとても簡単な様に思えてくる。本格的に英会話を習いたくなったのだが、冷静に考えてみると、英会話を習っても普段それを使う機会はまず皆無である。

金と時間の無駄だ。若くもないから時間は有効に使いたい。従って英会話は諦めた。今まで通り仏道に邁進するのみである。




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