2014年02月22日

純文学。

「老梅」

5.jpg

最近、「英語対訳で読む日本の名作」という本を読んでいる。いわゆる純文学の範疇に入りそうな日本文学の書き出しとあらすじを、英語の対訳で書いてある本である。

「坊ちゃん」や「雪国」「羅生門」「源氏物語」などの、有名どころの日本文学が大体載っている。鉄人はこれらの本を中学くらいまでに結構読んでいたと記憶していたのだが、いざあらすじだけでも読み返してみると、ほとんど忘れているのだ。

さらにそれらのあらすじの内容が、相当えぐいことに気が付いた。不倫、自殺、事故死、放火、裏切り、差別などなどこれでもかと人生の不条理のオンパレードなのである。

こんな内容の文学を、人生経験の浅い年端も行かない子供時代に読んでいたのかと思うと、ある意味ぞっとしたのだ。そして興味が湧きそうな小説があったらもう一度読んでみようかと考えていたのだが、このえぐさには正直ちょっと付いていけない。

純文学は、フィクションである。作家が自分の想像の中から生まれ出したものである。勿論自分の人生経験も作品に加味される訳だが、やはり想像の産物であることには違いない。

そしてその想像が相当えぐいのである。純文学の作家には、自殺したものや精神を病んでしまった者も多い。また絶望の中で死んでいった作家もいる。作品は作家の心が投影したものである。特に純文学と言われる世界に於いては、その傾向は顕著かもしれない。

もちろんすべてではないが、その病んだ心が投影された作品を我々は読んでいるのだ。影響がないとは言えない。特に多感な青春時代に純文学を読むというのは時期尚早とはいえないだろうか。

美文に隠されたその屈折した精神に、鉄人は「無理だ。純文学はもう読めない」と感じたのである。読まずに分かるのかとお叱りを受けそうだが、想像は真理を超えることはできない。今の自分には文学はもう必要がないかなと、あらためて感じているところである。
posted by masa at 22:09| Comment(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。