2013年08月23日

二つの道。

「記念撮影」

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「人が生きて行く道は二つある」と仏陀は説かれておられる。一つは「五感」を楽しませる為に生きる道。もうひとつは「五感」の楽しみから離れる道である。

「五感」とは、「視覚」「聴覚」「臭覚」「味覚」「触覚」になる。その五感(色、声、香、味、触)を感じる器官として眼、耳、鼻、舌、身がある訳である。

その五感を如何に楽しませるか、満足させるかが我々の人生のすべてであると言えるかもしれない。外部の情報は五感を通してしか入らないのだから、その各々の感覚を満足させる為に生きて行くのは、当然と言えば当然なのかもしれないのだ。

ところが仏陀はもう一つの道「五感の楽しみから離れる道」があると説かれておられる。前者の道が「世俗的な幸福の道」なら後者は「悟りによる絶対的な幸福への道」と言えるだろう。

簡単に言えば「五感の満足を手に入れる為に生じる様々な苦しみを手放した(悟りを得た)先にある幸福が真の幸福である。」となる。しかし問題は我々の人生に於いて五感の楽しみを手放せるだろうか、ということだ。

美味しいものを食べる。好きなテレビ番組を観る。お気に入りの音楽を聴く。子供と遊ぶ。スポーツをする。どれもその人にとっては自分の人生を謳歌するのに必要なものだ。

鉄人もしかりである。ラーメンには目がない、毎日テレビで「あまちゃん」も観る。AKBの新曲「恋するフォーチュンクッキー」は大のお気に入りである。

他の世俗的生き方をしている人々と何も変わらない。では仏教の修行をする意味は何処にあるのだろうか。何が世俗の世界と異なるのか。それは目の前の現象に対しての価値観の違いであろう。見方が違うと思うのだ。

「出家」とは、「五感の楽しみから離れる為修行する」ことを選ぶことである。徹底的に真理の道を歩むことになる。しかし幾ら仏教を学んで実践もしていても世俗の世界にいる限り「真理の道を歩む」ことに専念出来ない。このことが鉄人にとってはパラドックスであった。

しかしやり方によってはそのパラドックスを完全ではないが解決できる方法を学んだのだ。それは「世俗」と「真理」二つの真反対の道を同時に歩むという方法である。

世俗の世界で起きている様々な現象を、真理の目で観察するということである。例えば鉄人がラーメンを食べる。「美味い。」ほとんど味覚を満足させ、視覚と嗅覚を楽しませる。ここまでが「世俗」、その現象を「これは一時的な刹那的な感覚であり、またすでに通り過ぎたものだ」(無常)と観察する。また味覚自体も舌が持つ機能が働いたもので、それが脳の機能に伝達され「美味い」と認識したものであり、それは機能が作動したものであり自我ではない(無我)。と、気づく。これは「真理」の世界になる。

その様にこの世で起きている様々な現象を、真理の眼でありのままに観察して行けば、すべては「無常」「無我」「苦」だと体現出来るのだ。例外はひとつもないのである。

そこが仏教を学ぶことにより手に入れられる価値観の違いなのだと鉄人的には思う。

普段の生活の中で喜怒哀楽を繰り返しながらも、そこには一定した客観的価値観が流れている。それがやがては(来世以降)真の幸福へのステップになると思っている。



posted by masa at 18:10| Comment(0) | 日記
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