2013年08月12日

怒りの観察。

「祭の子」

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鉄人の最近の仏教的テーマは「怒りの観察」である。一日の中の様々なシーンに於いて、自分に怒りが起こっていないかを観察するのだ。さらに怒りが生まれた場合、その原因と怒りの状態になるまでの流れを観察する。そしてその発生した怒りに対してどのように対処するかを考えるのだ。

明らかに今怒りが発生しているなと観察出来たのは今日は二回あった。一度目は家族と昼食を摂る為に寿司屋の駐車場に車を停めた時だ。駐車場の案内の看板でちゃんとお客様用の位置を確認して駐車したにも関わらず、店の人間から「そこは従業員用のスペースなので移動してくれ」と言われたのだ。

こちらには非はない。「お客様用と書いてあるじゃないか」と反論したのだが、謝られたので折れた。しかし店の中に入っても怒りの感情が残っていた。そこで原因は分かったのでそれが何故怒りに繋がったのかを考えてみた。

まずちゃんと指示通りに駐車した訳だからこちらに非はないということ。今日は暑くてその場所は日陰だったこと。場所を移動するのが面倒だったこと。店の人間の言いようが多少無礼だったことが挙げられる。

次に別の角度から考えてみた。駐車場は幾らでも空いていた。日陰の場所もあった。車の移動などものの数十秒もあればできる。店の人間も、多少言葉が足りなかったが謝っている。

ひとつのことを観察しても、まったく真反対の考え方ができる訳である。どちらが自分にとって得になるのだろうか。最初の考えは間違ってはいないだろうが結果として「怒り」が生まれている。二番目の考え方なら多分怒りは生まれないだろう。

怒りとは「自分の思い通りにならない時生まれる」ものである。しかし人生に於いて「自分の思い通りになる」ことなど、思い通りにならないことの数に比べればほんのわずかだと思うのだ。

自分の思い通りにならないことが常だから、人は年がら年中怒っていることになる訳である。

今日二つ目の怒りは、運転中自分の目の前に物凄く遅い車がいた時である。時速五十キロの場所で時速三十数キロで走行している車がいた。制限速度ちょうどで走られても遅く感じるのに、法廷速度より十キロ以上も遅い。あまりに遅いのでイライラしてきた。当然これも怒りである。

するとある場所で前を走る車が道の端にやや寄ったので、追い越し禁止の道だったが鉄人は追い越してしまった。

あまりに遅い車も確かに迷惑ではある。だがしかし追い越し禁止の道路で追い越せば、警察がいたなら即アウトである。損をするのは鉄人なのだ。今日は母親とかみさんとを乗せてのドライブだったので急ぎではない。安全運転の立場から見てもアウト。さらにである。次の信号で追い越した車に追いつかれてしまった。

鉄人が怒りの為にとった行動は完全に無意味であり、というか甚だリスキーなものだったのである。今日のふたつの怒りを反省して、今度同じ様なことがあっても「自分の思い通りにはものごとはならない」という真理を念頭に置き、怒りが発生しない様、または発生してもすぐその怒りを消せる様に考えなければならない。

これも訓練である。否、訓練しなければいけないと思う。一朝一夕には上手くいかないだろうが、それが自分の為だと思うからだ。

参考文献  アルボムッレ・スマナサーラ著  「怒らない練習」
posted by masa at 00:54| Comment(0) | 日記
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