2010年02月28日

仏教的幸福論no.2

Photo 若き僧
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明日はひと月ぶりの瞑想会である。今月は七日にも瞑想会を開いたのであるが、それはテーラワーダ教の長老を招いての講演会であった。 
 
講演会を開いたことで反響があったかどうか。明日何名の参加になるか楽しみである。

この会の目的は瞑想の実践と初期仏教の勉強である。この会の瞑想法は「ヴィパッサナー瞑想」といって、釈尊自ら実践していた瞑想としても知られている。

「ヴィパッサナー」とは「ものごとをありのまま観る」というような意味だ。言い方を変えれば「観察する」ということになり、日本語的に訳すと「自己観察瞑想法」ということになる。他には「気づきの瞑想」「洞察の瞑想」みたいな訳し方もある。

この瞑想法、簡単に言えば自分の体の状態こころの状態を、感情を交えず客観的に淡々と観察するだけのことである。「考えない」状態に自分を置くのだ。誰でも出来そうだ。

ところがこの瞑想法は本格的に実践するとなると、これが相当大変なのである。鉄人も何度もトライするのだが、なかなか続かない。

何故続かないか。日頃人間は考えること、思考すること、妄想することに慣れてしまっていて、「考えない」ということを実践するのは、意外に出来そうで出来ず、結構厄介なのだ。

自分で実験してみればすぐ分る。「考えない」状態を維持しようと頑張っても一分も続かない。すぐに晩飯のことや仕事のこと、遊びのことなど、次から次へと頭に浮かんでくる。

その次から次へと湧いてくる思考や妄想に対して、客観的に「観察」をすることで、その隙をこころに与えなくする、というのがこの瞑想の目的である。

それでは何故「観察」が必要なのであろうか。それは人間の「苦しみ」の大半は「考えている」状態が作るからだ。「思考」したり「妄想」したりしている状態が「苦しみ」を生むのである。

まだ「思考」は論理的要素があるから良いのだが、「妄想」となると、それは感情的に何処までも暴走し、歯止めがかからなくなるから始末が悪い。

直接的な「苦しみ」ももちろんある。しかしそれを何倍何十倍と膨らませるのは「妄想」の力なのだ。

例えば、昔喧嘩して相手に殴られた。痛かったし、悔しかった。今は、殴られた直接の肉体的痛みはとっくに無くなっている。しかしその時の悔しさは「妄想」によって、何回でも自分に襲って来て、何回でも自分を苦しめるのである。

この例のように、人間は「妄想」することで「苦しむ」のである。それを「観察」することで、その「観察」している間、「妄想」から離れましょう、ということなのだ。

別に本格的な瞑想の時間を持たなくても、日頃の生活の中でも「観察」は出来る。例えば鳥の声を聞く。歩く時に左右の足を「観察」する。何でもよい、感情を交えずただこころを集中して「観察」するのだ。

ではただ「観察」するという行為が、何故タイトルである「幸福」に結びつくのであろうか。

ちゃんと「観察」している間は、当然「妄想」は起きていない。「妄想」が出ていない間は、こころが雑念で汚れていない、白紙の状態ピュアな状態になる訳だ。それはこころが清浄になって来ている状態でもある。

実践してみるとよく分るのだが、何かを「観察」していても、必ず「妄想」は出てくる。でもその「妄想」も、「今妄想が出て来た」と「観察」するのだ。

「今をありのままに観る」ことで、「今に生きている」ということを実感する。「妄想」は「妄想」にしか過ぎない。それに「気づく」のである。

「妄想」に左右されなくなったこころは、安らぎを得、落ち着きを得る。それは肩書きや金品では手に入れることが出来ない本当の「幸福」である。

誰でも出来る。何時でも出来る。何処でも出来る。ひとりで出来る。お金は一円もかからない。それで誰よりも「幸福」になれる。

試してみない手はないのである。


ヴィパッサナー瞑想会

開催日  2月28日日曜

瞑想会  10:00〜12:00

勉強会  13:00〜17:00
posted by masa at 08:07| Comment(0) | 仏教夜話
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