2010年02月08日

美しい心。

Photo 始まりの会
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今日は、待ちに待っていたテーラワーダ仏教の長老、ウ・コーサッラ先生が、鉄人のスタジオに来られて講演された。 
 
参加者は二十四名。狭いスタジオは一杯になった。しかし逆に参加者の熱気を帯びた素晴らしい会になった。

ウ・コーサッラ長老は、テーラワーダ仏教では数少ない日本人の長老である。御年四十三歳。長老と呼ぶには憚れる程お若い。

見た目もスマートで端正なお顔立ちの、今風で言えばイケメン長老である。常に笑顔を絶やさず、鉄人のようなド素人のトンチンカンな質問にも、ニコニコしながらこころのこもったお答えをいただいた。

会は午前中は何時もの瞑想タイム。午後一時から長老のお話をお聞きした。一昨日のブログで書いていたように、講演といっても、一方的に長老がお話されるのではなく、質疑応答の方式で会を進めた。

参加者はある程度初期仏教を学んでいる人から、全くの初心者まで幅広い。なので質問もかなり専門的なものから、ちょっとコケそうになるような初歩的な質問まで、様々な質問が飛び出した。

長老は嫌な顔ひとつせずに、それぞれの質問に対して懇切丁寧に対応されていた。

その長老のお答えを乱暴にも総括してみると、どの質問の答えにもベースには「美しい心」であることの大切さを説かれている。

出家者であろうと在家であろうと、仏教の初心者であろうと識者であろうと、それどころか仏教に全く縁がない人達であろうと、「美しい心」でいることが一番大切なのですよ。と仰るのだ。

仏道を歩む者の最終目的は「悟りを開いて、解脱する」ことである。しかしその道程は、凡夫の我々のような人間にとっては長い道程である。

けれどその長い道程のどの地点にいようとも、自分が「美しい心」でいたいと努力精進することは、何ものにも変えられない程意味がある。

例えば「善いこと」をしようとしている時に、同時に「悪いこと」は出来ないというこころの方程式がある。であるから善行が増えれば、相対的に悪行は減るのだ。

それは仏教徒でなくてもその方程式は変わらない。要は「美しい心」でいるか否か。

それをウ・コーサッラ長老は、ことさら言葉を熱くして説いてくださる。この言葉は「真理」だ。だから反論のしようもない。

鉄人は、次の質問をさせていただいた。「完全に悟る為には出家は必要か」。

長老のお答え。「悟りを得る為に出家する必要はないが、完全な悟りを得る為の過程で在家ではいられなくなる」というものだった。

補足すると、悟りの段階は煩悩や執着が完全になくなった状態である。我々が煩悩や執着なしに普段の生活を営むのは、逆説的に言えば不可能なのだ。

だから社会生活しながら、悟りを目指すならば、己の煩悩や執着を認めながら、それをひとつずつ解決していくしかない。

それで最終的に在家でいられなくなっても、それは自然の流れであるから問題はないといえる。またその時は目的が成就した時でもあるのだ。

ともあれ「美しい心」であることに、異論を唱えることはできない。後はそれを実践できるかどうか。

鉄人はもうひとつ訊いた。「仏教を深く学ぶことと、それほど深く学んでなくても実践をすることとはどちらが大切か」。

長老は即座に答えた。「それは言うまでもなく実践です」。

会は四時半に終了。ウ・コーサッラ長老のお話をお聞き出来ただけでも、参加者全員「美しい心」になれたようだ。
posted by masa at 01:01| Comment(0) | 仏教夜話
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