2010年01月27日

仏教的宇宙論。

Photo 川に暮らす
kawanikurasu.jpg

初期仏教を学んでいると、教義としての内容とともに、大変に興味深いことがある。 
 
それはスケール感である。我々一般人が普段意識するスケールと桁が違うのだ。

特に時間の観念が全く違う。例えば「刧」という時間の単位がある。一刧という長さは、ひとつの宇宙が生まれて消えるまでの長さだ。

どうにもピンとこない。比較対象がないからだ。そのピンとこない長さの時間の中で、我々は輪廻転生を、またピンとこないほどの回数繰り返しているそうだ。

現代物理学の宇宙論の中に、「ビッグクランチ論」というものがある。この理論は、ビッグバンでひとつの宇宙が生まれて段々膨張し、やがてその膨張が収縮に転ずる。そして段々小さくなる。というものである。

実は現代物理学の宇宙論の中でも最先端の理論で、まだ異端に属するこの理論と、同じような内容の記述が、初期の仏典の中にあるというのだ。

それどころか、仏典の宇宙論はまだ先を行っているらしい。現代物理学風に言えば、「仏教的膨張収縮論」ということになるだろうか。

宇宙はある一点から膨張し、やがて膨張のピークを向かえ収縮に転じ、そして小さな一点まで収縮して終わる。

現代物理学ではここまでである。ところが仏典では、ひとつの宇宙が終わった瞬間に、新しい宇宙が生まれ、また膨張収縮する。それが終わればまた生まれる。永遠にその繰り返しが、宇宙の姿だと言うのだ。

驚愕すべきことである。二千六百年前にひとりの人間(もちろんお釈迦さま)が言っていることなのである。天体望遠鏡も何も無い時代。もう訳が分らないほど凄いと言うしかない。

この「仏教的膨張収縮論」に則ると、宇宙も輪廻転生していることになる。

人間も他の生き物も、膨張収縮で一生が終わる。死ぬ時一点にはならないが、物理的にはやがて消えてなくなる。そして次の生に輪廻する。

何しろ「刧」という時間の単位を基準にしているほど、桁外れの長い時間である。その間で数えきれない程の生まれ変わりを繰り返していたら、一回の人生など閃光みたいに短いということになる。

初期仏教の死生観は、「死ぬのは当たり前のことであり、どうということはありません」と、こうくる。また来世で頑張ってちょうだい。そこでダメならまた次で。

でも肉体を持つと、いろいろと大変でしょ。だから悟りを開いて、その大変な繰り返しから(輪廻)から、早く離れた方がいいですよ。(解脱)

それで、解脱出来る方法は、仏教の中にだけあります。やってみませんか。(八正道やヴィパッサナー瞑想法など)

ということなのだ。ここに仏教の存在理由と存在価値があるという訳である。

我々はいくらでも生まれ変わるようである。しかし仏法に触れることが出来るチャンスは、千載一遇なのかもしれない。
posted by masa at 23:03| Comment(8) | 仏教夜話
この記事へのコメント
解脱したら、宇宙が膨らんだり縮んだりしている光景を見ることができるんでしょうね。
目で見るわけではないんでしょうけど・・・
なんだか、ものごとはすべてクルクル回っているように感じます。
宇宙の伸縮も大きな波で、波は位相に変換するとクルクル回っているわけで・・・
でもクルクル回っていない外側の世界があって、そこにお釈迦さんたちがいたりするんでしょうねぇ・・・
Posted by M.SAITo at 2010年01月28日 12:11
M.SAITo様 いらっしゃいませ。

コメントどうもありがとうございます。

「波」というのは、大変に的確な言葉ですね。

繰り返す膨張収縮は「波」そのもの。鉄人の参加している瞑想会の、ヴィパッサナー瞑想法でも、呼吸をすることで起こる、「膨らみ縮み」を観察することを最重要視しています。

まさに輪廻の外にいるお釈迦さまが、膨張収縮している宇宙を覗いている感覚ですね。

何かそういう意識でいると、小さなことがあまり気にならなくなってきます。
Posted by 鉄人 at 2010年01月28日 14:53
大変楽しく拝読しました。
宇宙のことも、考えるのダイスキなんです。
考えれば、考えるほどわからなくなるのが
宇宙です。「果て」ってあるの?とか
もしかしたら、お風呂でつぶす
水滴の中に「宇宙があったりして・・」とか
(笑)
前に見た映画でサッカーをしてる大きな
怪獣の首にかかっているネックレスの中に
「銀河」が入っているって設定を見て・・
あながち私と同じような考えの人も
(スピルバーグですがww)
いるものだなと、嬉しくなったことがあります。
時間の概念、宇宙の概念
考え始めるとキリがないです。
Posted by kuniko36 at 2010年01月28日 16:46
kuniko36様 いらっしゃいませ。

コメントどうもありがとうございます。

光の速度より速いものは、今のところありませんから、宇宙の果てを確認することは、人類にとっては不可能です。

逆に最小も終わりがない。したがって存在は意識出来るけれども実体が無い。初期仏教で言うところの「空」になります。「無」ではないんですね。

数の最小単位を、「涅槃寂情」とか言ったりします。「涅槃寂情」とは、悟りを開いた安らぎの境地のことですが、それを最小単位にしている。なかなか意味深いですね。

実はお釈迦さまは、宇宙のことや死後の世界のことなど形而上
的なことは、ほとんど語っていません。それどころか避けていた。

そういう証明が出来ないことに時間を使うより、もっと目の前の修行をしなさい。という訳です。

とは言っても鉄人も宇宙のことなどに、大変興味があります。お風呂の泡やスピルバーグの話。あり得ると本気で思っています。

何事も人間の基準だけで、ものごとを観てはいけませんね。
Posted by 鉄人 at 2010年01月28日 21:57
若い頃に訪れたお寺だったかどこだったか、それぞれの仏さんがいる位置や何万年・何億年後にまたいらっしゃるか、など表した図を見たことがあります。「なんとまあ気の長い」とびっくりしたものでした。子どもが幼稚園のクリスマスで「何百年もイエス様がお生まれになるのを待った」と習っていますが「仏さんを待つのはそんなもんじゃぁない」など心の中で思ったりして。(もちろん長ければいいという話をしているつもりじゃないし、仏教とキリスト教のどちらがいいなんて言うつもりもありません)。

「宇宙の」輪廻転生!さらに気の長い話ですねぇ。

お寺さんがもっとそういった「宇宙観」みたいなものを話してくださるといいですね。もっと多くの人に興味を持ってもらえるような気がするのですが。

見当違いなことを書いていたらすみません。
Posted by ナナ at 2010年01月28日 22:01
ナナ様 いらっしゃいませ。

コメントどうもありがとうございます。

確かに仏教の宇宙観は壮大ですね。ただ日本の仏教の場合、その宇宙観ばかりが取り上げられ過ぎて、まるでスペースファンタジーみたいになっています。

法華経辺りの仏典を読むと凄いですよ。お釈迦様が、まるで全宇宙を支配する絶対神みたいな扱いになっています。実在した我々と同じ人間なのに。

お釈迦さまが説かれた宇宙論は、純粋に今で言う物理学的見地からで、学問のひとつだったのです。

それが中国を経由し日本に仏教が入って来た時に、純粋な教えよりも、民衆が有り難がるシンボルとしてのお釈迦さまや仏さん達を作り上げたのですね。

ですから日頃我々が親しんでいる大日如来とか、阿弥陀様や観音様。不動明王などなど、初期仏教の経典には何処にも出て来ません。後世の人達が創作したもののようです。

日本のお寺のお坊さんには「宇宙観」ももちろん結構ですが、もっと仏教そのものを勉強してもらって、民衆のお手本になってもらいたいですね。
Posted by 鉄人 at 2010年01月28日 23:45
宇宙には、始まりと終わりまでの長さがあると書いてありますが。宇宙も人間も、宇宙にあるすべてのものを作り出す根源である、素粒子も、始まりと終わりまでの長さ(単位)にあるのだと思います。始まりと終わりが同時にある。原因と結果は同時にある。同時にあるから、始まりの結果から、終りの結果に到達しようとする、意識があるのだと思います。
そして三角とは、相対するものが相互作用を有し、中間という結果に到達しようとする基本的な形(原理)にあるのだとも思います。
私は科学には無縁ですが自分なりの宇宙を考えています。そして考え続けていると仏教思想に近づきます。素人宇宙論ですが気が向いたら見てください。トンタマパール、と検索すると、宇宙のしくみ、と出てきます。
Posted by 小池 正利 at 2014年06月12日 23:36
小池様 いらっしゃいませ。 コメントどうも有り難うございます。

いただいたコメントへのご返事が遅くなりまして申し訳ございません。小池様よりコメントをいただき早速トンタマパールにお邪魔致しました。

部分的にではございますが拝読させていただきました。正直なところ小生の頭ではあまりにも難解です。一度目を通したくらいでは理解不能ですね。

小生の理解では、すべてが今に集約するのかな。という浅いレベルのものです。今回、小生が四年前に書いたブログにコメントをいただいたものですが、あれも乱暴に言えばお釈迦様の言葉の受け売りでして、自分の理解が何処まであったのか怪しいところです。

最近は仏教思想を追うことが少なくなりつつあります。学問として追えば切りがないという部分もありますが、結局、仏道を歩む目的は、「解脱」がすべてであり、その為には「苦、無常、無我」に対する観察の「実践」しかないという結論に至り、それ以外のことは基本的には捨てております。

すべての答えは自らにある。そしてその答えを得るには自分への観察の実践以外ありえない。というのが今の心境です。

トンタマパールをまた拝読させていただきます。有り難うございました。

Posted by 鉄人 at 2014年06月14日 22:01
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