2009年12月18日

ありのままに観る。

Photo 虱とり
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初期仏教で一番大切な行いのひとつに、ものごとを「ありのままに観る」、「観察する」というものがあります。 
 
普段我々の生活では、自分の主観で観る。好みで観る。一般的な基準で観る。など、そこにはなにがしかのフィルターを通してものごとを観ています。

それをおシャカさまは、そういったフィルターを通さず、「ありのままを観なさい」「客観的に観察しなさい」と、説くのです。

その意味は何処にあるのでしょうか。自分の感情をなくして観察するということは、目の前で起こっている「事実」を観て理解するということ。

その理解は間違いがない。ということになる訳です。感情で観ますと、自分にとって都合が悪いものは、意識して観ないようにします。逆に自分にとって都合が良いものは、実際より良く観てしまおうとするものです。

感情で観る。ということが、「様々な間違いの原因ですよ」とおシャカさまは仰る訳です。

今回は身体を観察してみます。我々は生きていますから当然身体が有る訳なんですが、大事なものですよねえ。

健康の為に運動もするし、食事にも気をつける。女性ならお化粧もします。おしゃれをしたり、香水つけたり。からだの為にありとあらゆることを人間はします。自分の身体を守る為なら何だってしますね。

では、おシャカさまは、その身体についてどのように仰っていたでしょうか。

「人間の身体は汚いものだ。不浄(不潔)である」と仰っていました。

もっと過激な言葉で、「人間の身体は製糞機である」、分り易く言うと、「ウンコを造る機械に過ぎない」と仰っていたのです。

人間の身体から出て来るものは、目からは目ヤニ、耳からは耳垢、鼻からは鼻汁、口からは痰、身体中からは汗や垢。身体中の穴という穴から、不潔なもの「糞」だけが出てくるのみ。それも年がら年中。

逆にきれいなものは何処からも一切出て来ない。そんな不潔な身体に、人間は強く強く「執着」しているのだ。ちゃんと観察してそれに気が付きなさい。強く執着するのはやめなさい。と、おシャカさまは説くのです。

鉄人も自分の身体を観察してみたらその通りでした。毎日着替えをするし、風呂にも入ります。でもそれって放っておいたら汚れがひどくなるからでしょう。例外はないのです。

「私、一ヶ月お風呂に入らなかったから、前より清潔になりました。良い匂いもします」ありえませんね。「人間の身体は不潔」これが「ありのままに観た事実」なのです。

例外がないということは、誰だって同じですよ。ということ。浮浪者だって国王だって「糞の塊」。美人もそうでない人も「糞の塊」。自分が偉いと勘違いしている人も、ただの「糞の塊」。表面的にちょっと違うだけで、本質は皆一緒。

これが理解出来れば、自分大事で、争ったり、戦ったり、奪い合ったりすることがなくなります。そしてこころは自由になる。

初期仏教ではこれらのことを「不浄随観」という瞑想で観ていきます。また「死随観」といって「死」をありのままに観る、という瞑想もあります。

「ありのままに観る」。簡単そうですが、固定観念の塊のような我々は、それに対して結構躊躇してしまうのです。でも事実を観ない、認めないという生き方は、事実を何も知らなくて生きているということ。無知だということ。それは「執着まみれ、欲まみれ」の人生を送るということと、同義です。

なかなか理解が得られないことではあるのですが、鉄人はこれからも「ありのままに観る」「客観的に観察する」ということを、実行していきたいと思っています。


参考書  アルボムッレ・スマナサーラ著 「勝利の経」
posted by masa at 23:45| Comment(0) | 仏教夜話
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