
インドの聖人プンジャ(パパジ)、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、禅僧ティクナットハンとの出会いはまさに鉄人に覚醒をもたらしている。
ティクナットハンを除き彼らは仏教徒ではない。ではないがその教えの本質は仏教と異ならない。何が異なるのかと言えば、それは鉄人の捉え方にある。
既成の仏教よりも彼らの教えの方がシンプルなのである。仏陀の教えはあまりにも膨大で、その教えの全貌を鉄人の頭では到底捉えきれない。
下手をすると仏教の知識の収集で今世を終わらせてしまう。例えば道元の正法眼蔵の解読のみでこの人生が尽きてしまう恐れがあるのだ。一切経に至っては読むだけでも約20年掛かる計算になる。
鉄人がパパジに傾倒したのは、その教えが真理の核心のみに傾注したものだからである。その核心とは次のことばになる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あなたはすでに「それ」なのだ。
修練をして真我になるのではない。修練をするのは自我でしかない。努力を棄てなさい。あるがままに在りなさい
。一つの想念も起こさずに、ただ静かにしていなさい。
そうすれば、世界の現れも真理の探求もすべては自分の心の投影でしかなく、束縛も、解脱も、解脱を求める人も存在しないという究極の真理にあなたは目覚めるだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「それ」とは、「真我」、「空」、「神」になる。元々「それ」なのである。鉄人は修練して、努力して「それ」に近づこうとしていた。しかし元々「それ」なのだから、それに気づけば良いことになる。
自我である自分の心の投影、想念が世界を創造しているのだ。しかし変化消滅するものに本来自我はありえない。普遍の自分がいるという錯覚は、周りの環境が作り出した幻想にしか過ぎない。だから無我なのである。
無我ならば、束縛も、解脱も、解脱を求める人も存在しないことになる。また生まれることも死ぬことも無い。それも想念だからである。ならば、あるのは、「真我」であり、「空」であり、「神」ということになる。鉄人は、元々「それ」だったのである。
我々から真理を隔てているのは、思考で現れた想念である。想念が「苦」の原因なのである。想念がないところに「苦」は存在しえない。真の幸福とは、「苦が存在していない状態」と換言出来る。
あなたはすでに「それ」である。この言葉によって、鉄人は真我に覚醒したのである。