2014年06月19日

観察の危険性。

「慈雨」

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解脱の為には、「無常」「無我」「苦」の観察を徹底的に行うことが必要になる訳だが、仏陀は、その観察に於ける「汚れ」に注意する様説かれている。

我々が目指す解脱にとって観察は必須なのだが、そこには危険性も孕んでいると指摘されているのである。それも真剣に徹底して修行している修行者ほど陥り易い落とし穴なのだ。

観察の汚れは十種類あるらしいのだが、その内容は難しい。それはある地点まで到達している修行者でないとその落とし穴は存在しないからである。

真面目に真剣に修行しているのに汚れる。汚れるのはこころである。このパラドックスを回避しなければ到底解脱には辿り着かないことになる。

ではどういう理由でこころが汚れるのであろうか。スマナサーラ・バンテーが「ブッダの実践心理学 第八巻」で説明されている十種類の「汚れ」の内の2〜3を取り上げてみたい。

ひとつ目は「光」である。瞑想していると、目をつぶっているのにも関わらず、頭の中に光が現れてくる。この現象が現れると、修行者は喜ぶのである。

中にはこれこそが「悟りの光だ」と勘違いする修行者も出てくる。だが光は現象であって、悟りとは無関係なのだ。光が現れたことで喜び、それに執着する。これが「汚れ」なのである。

二つ目は「智慧」。例えば無常を観察する。一切の現象は無常であるという真理をまざまざと理解するようになる。これが智慧である。

その事自体に問題があるのではなく、そのことで「これは解脱である」と解釈してしまうことが「汚れ」になるのだそうだ。無常に対する観察に於ける理解と解脱はまた別もの。ほとんどの優れたヴィパッサナー実践者が引っかかる可能性がある「汚れ」になる。

三番目は「喜」。喜びである。修行が進み、ある地点に来ると勝手に喜びが湧いてくる。これは修行の成果であるのだが、問題はこれも悟ったと勘違いすることにある。

修行の目的は、一切の執着を捨てることであって、喜びに溺れる事ではないとバンテーは説破されている。

鉄人は修行不足で今だこの境地には達していないが、本の内容は何となく理解できる。これからはこの「汚れ」に陥らない様注意して観察して行きたい。


posted by masa at 23:56| Comment(0) | 日記
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