2014年11月18日

私は神。

「神在月」

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インドの聖者「パパジ」(プンジャジ)をYouTubeで知り、その説法会の様子に感銘を受けたので、その師「ラマナマハリシ」や「シュリ・バガヴァン」、平和運動家である禅僧「ティク・ナット・ハン」などのYouTubeを立て続けに観ている。

教えは結局皆同じである。それは「我々の本来の姿は『神』である。」ということである。それは別の言い方をすれば、「空」、あるいは「真我」。

鉄人の「私は誰?」という問いを何十年も探し廻った末の答えは、「私は『神』である。」というものだった。そう、青い鳥は自分の中にいたことになる。しかしここで言う「私」は、「I」ではない。仏教の「無我」は「わたしというものは実体ではない。」というものだ。

パパジの教えでは、「私」は想念の蓄積したものになる。生まれたばかりのときには「私」という概念はなかった訳で、想念が蓄積されることに従い、何時の間にか徐々に「私」という概念が構築されていくことになる。逆に言えば、想念を積み重ねる環境がなければ何時までたっても「私」という概念は構成されず、従って「私」は存在しないことになる。

「私は『神』である。」という実例としてパパジは次の様に説かれた。夜、我々は眠りにつく。深く眠っているときすべての世界は存在するだろうか。我々はそれを認識できない。寝ているときは「無」である。

やがて朝になり目が覚める。日常の世界に舞戻る。我々は認識するのである。すべての世界は、我々自身が寝ているか起きているかで決まることなのだ。

そして起きていて認識できる世界も、自分の五感(見る、聴く、臭う、味わう、触れる)範囲内でしか認識出来ない。隣の家のことでさえ自分が感じる五感の範囲だけしか知り得ないのである。

パパジは、深く寝ているときは世界は消え、起きることで世界は現れると表現された。世界は自分の五感が作り出した幻だと言えるのではないだろうか。

その幻を創造している者は誰なのであろうか。それが「神」あるいは「真我」、「空」。ということになるのではないか。

我々と一体である「神」、「真我」から我々を遠ざけているもの。それが想念だとパパジは説かれる。その想念が新たな生になり輪廻転生を繰り返し、また同時に「苦」を繰り返す。

「何もしてはいけない。ただ静かでいなさい。」というパパジの教え。我々の「真我」が「神」であるのなら、何処にも行く必要はなく何かをする必要も無い。ただ想念を湧かせず静かにしている」ことなのである。

今まで仏教で学んできたことを、よりシンプルに理解出来た様に思う。「神」、「真我」、「空」でさえ概念なのだ。「ただ静かでいる」こと。我々は自分の中に「神」を静かに見ることも無く、生きることにバタバタし過ぎている様に思うのだ。







posted by masa at 11:27| Comment(0) | 日記

2014年11月14日

最近のやっちゃった。

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第一弾 

少し前、鉄人が撮影した広告写真が新聞に載った。上に出ている写真である。その日の朝、鉄人は何時もの様に新聞を読んでいた。この写真が載っているページも読んでいた。にも関わらず、この写真に全く気がついていなかったのだ。

結構大きな扱いなんだけどね。後でかみさんに言われて初めて気がつく。何処を観てたんだろう。


第二弾 

広大病院での出来事。その日、広大病院で医師の撮影があった。しばらくぶりで行ってみたら随分様子が違う。本館の建物が新しくなっているのだ。ちょっと離れた駐車場に車を停めたのだが、よく見ると本館の建物の横に駐車場がある。撮影場所は本館の中なので、あっちの駐車場が建物に随分近い様だ。
 
鉄人、一旦停めていた駐車場を出て、その建物の近くにある駐車場に向かった。着いてみると満車だ。もう少し奥にある駐車場に向かう。ここも満車である。更に奥にある駐車場まで行ってやっと停められた。

停められたのは良いのだが、最初の駐車場から建物までの距離より倍以上あった。重い撮影機材を引きずりながらトボトボと撮影場所である本館まで歩く羽目になったのである。


第三弾 

あるパン工場での出来事。パンの撮影の為に工場の駐車場に車を停めた鉄人は、何時もの様に撮影機材を車から出していた。ところがストロボが入っているバッグが見当たらない。車の周りを見渡しても無い。そんなはずはないのだ。撮影の準備は前日の夜に行い念入りに確認もしている。

でも無い・・・ものは無い。冷や汗が全身から出てくる。ストロボはカメラの次に大事なものだ。ストロボなくしては商品写真は撮れない。今日のクライアントは新しい取引先で信用に関わる。どうしよう。まず家に電話し息子にそのことを伝える。そしてストロボを急いで持ってくる様に頼む。

まずいことにそのときの撮影場所は我が家から一時間もかかる場所であった。渋る息子。だがとやかく言っている場合ではないので、何とか持ってくる様に頼んだ。ところがである。その肝心のストロボがスタジオに見当たらないらしいのだ。

「???何で無い?」。そのときである。一緒に来ていたかみさんが何やら黒いバッグを抱えてこちらに向かってくるではないか。そう、ストロボが入ったバッグである。

実はその撮影を依頼していたクライアントも来ていて、親切にも鉄人のバッグを撮影場所まで先に持っていってくれていたのである。

そのことを全く知らなかった鉄人は顔面蒼白、茫然自失、冷汗一斗になったという訳である。ストロボがあって良かったのだが、この事件の動揺は撮影が始まってもしばらく続いた。本当に心臓に悪い。


第四弾 

今度はかみさんが主役である。ある仕事でモデルさんを撮影することになった。背景にキレイな景色を持ってきたいというクライアントの希望で、紅葉が真っ盛りの場所が選ばれていた。

行ってみたら確かに紅葉が見事な渓谷で、真ん中に吊り橋が架かっている。吊り橋を渡ったところに景色がキレイな場所があるというのでその吊り橋を渡ることにした。

そのとき想定外のことが起きたのである。かみさんが吊り橋を渡れないのである。鉄人のかみさんは高所恐怖症だったのだ。

まさに一歩たりとも進めない。まったくのお手上げ状態である。仕方が無いので鉄人とモデルさんふたりで吊り橋の向こうで撮影することにした。レフ板持ちで連れてきたのにこれじゃ意味が無い。考えてみれば、かみさんは歩道橋を渡るのがリミットだったのである。
posted by masa at 16:41| Comment(0) | 日記

2014年11月04日

道の駅巡り。

「睡蓮」

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昨日一昨日とかみさんの田舎に帰っていた。毎日鉄人の母の面倒を見てくれている気苦労に対する気分転換と、かみさんのご両親をドライブに連れて行く為である。

特にかみさんのご両親は橋の無い島に住んでおられて、車の免許もお持ちでない。自然、普段は活動の範囲も狭くなるので、旅行とかドライブがお好きなのだ。

旅行までお連れするのはご高齢ということもあり簡単にはいかないのだけれど、ドライブなら鉄人でもお連れ出来る。ということでかみさんと四人でドライブをすることにした。

ドライブの日の一昨日は生憎の悪天候であったが、かみさんとご両親は「道の駅」が大好き。そこで備後地区の道の駅巡りを鉄人が計画、朝9時に竹原港でかみさんのご両親を拾い北に向かい出発した。

予定の道の駅は5カ所。状況に合わせて増減を決める。道の駅から次の道の駅まではご両親が疲れない様に一時間以内、正午に食事が出来る大型の道の駅に着く様に段取りする。

雨は降っているし、ご高齢のおふたりを乗せている。運転には気を使う。実は鉄人病み上がりだったのである。数日前に息子から風邪を移され体調を崩していた。ドライブ当日は大分風邪も治っていたのだが、まだ完治していなかった。

たまに咳が出るのでマスクを着用、おふたりに風邪が移らない様にと出来るだけ咳が出ない様に我慢。ドライバーもなかなか大変である。

途中から雨も小止みになる。雨だったからか道の駅の利用者もそんなに多くない。買い物は存分に楽しんでくれた様だ。鉄人は相変わらず買い物には興味が無い。でも町のスーパーでは有り得ない様なでっかい椎茸とか葉っぱがまるまる付いている大根とか、見たことが無い野菜などが売ってあり、それらを見て回るのはそれはそれで楽しいものである。

お昼は田舎料理のバイキング。ホントに素朴な田舎料理だったがなかなか美味い。これも道の駅ならではの楽しみである。

ドライブの後はかみさんの実家に一泊、夕食に早速道の駅で買ったものを食べる。美味いものもあれば、信じられないくらい不味いものもあった。

話の中心はやはり不味いものへの悪態である。「何でこんな不味い押し寿司を売るのか。」「ホントに不味い!!
」「信じられない!!」

これが旅の醍醐味なのだ。この先、今回のドライブの話をするときに必ず真っ先に出る思い出話は、この信じられないほど不味かった押し寿司のことである。

鉄人が食べても確かに不味かった。でもその不味さを共有した者だけが楽しめる思い出である。不味くて良かったのかも。

かみさんのお陰で鉄人は何とか真っ当な暮らしが出来ている。そしてそれは働き者のかみさんを生んでくれたかみさんのご両親のお陰であるのだ。

本当に感謝しかない。ドライブくらいではとても恩返しにはならないのである。


posted by masa at 00:40| Comment(2) | 日記