2014年10月24日

善と交われば善になる。

「峠に御座す」

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「人の心は決定(けつじょう)、他人の言葉に随(したが)ふと存ず」。人間の心と云うものは、周りにいる他人の言葉によって容易く左右されてしまうと道元は諭す。「朱に交われば赤くなる」というやつである。

こうも説いてる。「悪人に近づけば、我心にも初めは悪しきと思へども、終にその人の心に随(したが)ひ馴(なる)るほどにおぼへず、やがて実(まこと)に悪しく成(なる)なり」。悪い人間ばかりとつき合っていると、最初は「こいつらは悪い人間だ」と思っていても、慣れてくるにしたがい、だんだんとその様な批判的な眼を無くしてしまい、最後は自分の心まで本当に悪くなってしまうものだと。

だから「縁」というものは本当に大切なものなのである。縁は自分で選ぶのだ。「故にいかに元より悪しき心なりとも、善知識に随(したが)ひ良人(りょうにん)に馴るれば、自然に心も良くなるなり」。

善き指導者や善人と馴れ親しんでいれば、自然と自分の心も良くなるということだ。その通りだと鉄人も思う。鉄人の心も弱い。何時もフラフラしている。悪の心も勿論持ち合わせている。善悪どっちに転ぶかは、どのような人たちと普段つき合っているかで決まることもあるだろう。それほど環境の影響は大きいと言える。

だが、経験上、善知識や良人(りょうにん)を見極めるのは意外に難しいのも事実だ。この人は善人だと思ってつき合っていた人物が、つき合っているうちに別の顔を見せ始めることもよくある。鉄人もそれで随分苦しんできたのである。

仏教を学んでいるからといって、それで良人だとは限らない。増上慢な輩もいれば、エゴイストもいる。無信心な人でもイノセントでピュアな良人も勿論いる。

鉄人の良人の基準は、私心なく他人の為に善事を尽くしているひと、ということになるのだろうか。例で言えばマザー・テレサみたいな。なかなかいないよな〜とは思う。

釈尊は、「善友(ぜんぬ)を持つことは、仏道のすべてである」と説かれている。仏道に限らず難しくてもどんなことよりも優先してその良縁を見つけ出すべきではないだろうか。

参考  遠藤 誠著 道元「禅」とは何か 第五巻 
posted by masa at 00:10| Comment(0) | 日記