今日の中国新聞に、「世界の自殺者」の数の記事が載っていた。その数、推定80万4000人、静岡県の浜松市の人口と同じ数の自殺者が毎年出ていることになる。
よくテレビのニュースなどではテロの恐怖を伝えているが、テロの犠牲者とは比較にならないほどの数の人々が自ら命を絶っているのである。
日本の自殺率は、世界の中でもトップクラスである。世界有数の経済大国で、その豊かさを享受しているはずなのに、自殺者は後を絶たない。
自殺の原因は、精神疾患や金銭問題、病苦が多い様だが、戦争や災害を経験した人の自殺率も高いらしい。
仏教では自殺を禁じている。理由は割愛するが、今日は「人は何故、自殺するのか」を、仏教の観点から考えてみたい。
鬱病を始めとする精神疾患を例にとってみると、精神疾患になる原因として、自分の考えている理想と現実とのギャップがある。言い換えれば自分の価値観が通じないから、精神的に苦しみ延いては病むのである。
そもそも己の価値とは何だろうか。どんなに努力しても頑張っても最後にあるのは「死」である。いずれ消えてなくなるものに価値などあるのか。己に限らずすべては変化消滅していく「無常」のものなのに。
「無価値である」。そして「存在とは苦しみ」であり「空しい」ものだ。と仏陀は説かれたのである。
自分には特別な価値があり、人生とは楽しく喜びが溢れるものだ。と、我々は考えている。しかし現実は苦しみが多く、やがて老い最後は確実に死ぬのである。ここにギャップが生まれるのだ。
「自分だけ不幸でこんなに苦しんでいる」と言う人がいる。苦しんでいない人がいるのだろうか。彼の松下幸之助が晩年吐露した言葉がある。「若さが欲しい、他には何もいらない」。あれだけ成功を収め、地位も名誉も富も手に入れた彼が、「何もいらない若さが欲しい」と嘆いたのである。
で、彼はそれを手に入れたのであろうか。その言葉から間もなくして彼はこの世を去った。
「人生は短い」そして自殺などしなくても「必ず死ぬ」のである。ならばその短い時間の間をどう穏やかに生きていくか。すべてが無価値だと思えれば気持ちが楽にならないだろうか。
「自分なんか大したことない」と思えれば苦しみの原因になっている執着も減っていくのではないだろうか。
すべては現象に過ぎない。そして現象は一時も止まることなく変化していく。きれいなシャボン玉もすぐはじけるのだ。
死にたくなる者は、この真理に気づかず、何も無くならない。変化するはずがない。壊れるはずがない。死ぬはずがない。と思って生きているのである。でも現実はすべては変化し消えて無くなるのだ。己への価値が高い者ほどその乖離に苦しむ。そしてその苦しみから逃れる為に自殺しようとするのだ。
だから仏陀の教えを学び理解し体得するということは、こころの平安を手に入れる為にはこれ以上のものはないと鉄人は信じている。そして無数の自殺予備軍に、仏教を学んで頂きたいと切に願うのである。
参考 根本仏教講義 アルボムッレ・スマナサーラバンテー