2014年07月10日

更地。

「石見の農家」

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今日かみさんの親戚から電話が掛かって来た。母が5月末まで住んでいた家が取り壊され更地になっているとの内容だった。

40年余り住んでいた家だがその家が既にない。母の人生の半分近くがそこにあった訳だが、何とも儚いものである。

街の中でよく更地を見かけることがある。どんな建物があったのか分からないこともあるが、行きつけの店があったところが更地になっていると、やはり感慨深いものがある。

今でもそこの店主の笑顔や話し声、食べ物の匂い。店内の空間までもが今でもまだ存在しているかの様に鮮明に思い出される。

でも無いのだ。永遠に。もう二度と同じ経験をすることは出来ない。その店は過去のものであるのだが、その店は存在したのだろうか。

その店を知っている者にとっては存在したと言えるだろう。しかし知らない者にとってはどちらとも言えないことになる。

また知っている者にとっても、各人の記憶の有り様は全く異なる。何処までが真実の記憶か言えなくなる。またその記憶が正確かどうかを確かめる基準も実は無い。既に更地になっていれば尚更である。

そう考えれば、過去とは存在しないことになるのではないか。未来も同じである。通念としての過去や未来はあっても、実体としての過去や未来という時間は存在しない。有るのは今この瞬間だけということになる。

すべては流れていくのだ。流れが止まるということは一瞬たりとも無い。終わりは始まりでもある。家という現象が終わって更地という現象が始まったのだ。

「無常」なのである。
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2014年07月08日

アイドル。

「野辺に咲く」

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今夜テレビを観ていたら、「あの人は今」的な番組をやっていた。昔人気があったアイドルを探し出し、その人の現在の様子を伝えるものであった。

鉄人にもアイドルがいた。それも小学校の低学年のときからいたと思う。鉄人の最初のアイドルは、ハワイアン歌手の「日野てる子」である。長い黒髪にハイビスカスの大きな花を一輪飾っていた。

既に故人だが歌も上手く笑顔が優しそうな歌手だったと記憶している。それから酒井和歌子、松原智恵子辺りが鉄人が小学生だった頃のマイアイドルである。古いね。

中高は天地真理と桜田純子。特に桜田純子は何時もブロマイドを持ち歩いていたほどファンだった。絵が得意だったので、授業中勉強もせず彼女達の似顔絵ばかりを描いていた。今のオタクみたいなものだ。

あこがれの天地真理は現在アンパンマンみたいになっていて、以前の面影はなく完全に他人である。何と時間は残酷なものだろう。

大人になってからは特にアイドルはいなかったと思うが、鉄人の永遠のアイドルは女優の「田中裕子」。まさか当時男性アイドルナンバーワンの沢田研二ことジュリーに攫われるとは思いもしなかった。裕子はド面食いだったのだ。残念。

息子達は今回ブログに出て来たアイドル達を全く知らない。どころか、今夜のテレビ番組に出ていた、鉄人にしたら割と最近のアイドルと思われる登場人物達もほとんど知らなかった。鉄人自身が「あの人は今」ってか?


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2014年07月07日

台風接近。

「山雨」

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今回の台風はヤバそうである。瞬間最大風速が75メートルなんてありえない。鉄人が経験した最大風速が40メートルである。その日スタジオで撮影していたのだが、あまりの風の凄さにクライアントと二階のリビングに上がり風に吹っ飛ばされそうに激しく揺れている木々を皆で見物していたことがある。

今回はその倍である。どうなるのか予想もつかない。最近の台風は段々巨大化しているという。将来最大風速100メートル級の台風の出現も可能性としてあるそうだ。

去年フィリピンを襲った台風がそのクラスだったそうで、甚大な被害が出たことは記憶に新しい。

鉄人は長崎県の出身だが、長崎は昔、台風銀座と呼ばれていた。台風の進路が必ず長崎県を通っていたのである。台風が近づくと各家々が雨戸を閉め、その上から板を釘で打ち付けていた。何時も台風が来ていたので慣れたものだったのだ。

台風が近づくと子供だった鉄人は気持ちがウキウキしたものである。家の裏に大きな川が流れていたのだが、水かさが増し濁流となっているその川を観に行ったこともある。川まで下る階段があり水面ぎりぎりまで降りて行ってその濁流になった川を眺めていた。そのときに足を滑らせていたら鉄人はもうこの世にはいない。

危ないことをしていたのだが、外に出られないほどの台風ではなかったことになる。ヤバいなあと思ったことは、子供心に一度もなかったのである。

最近の台風の凶暴さは尋常ではない。マジで危ない。進路がどうなるか分からないが、その進路に沿った地域は大変な被害が出ることは間違いがないと思われる。

巨大な台風の前では人間はなす術がない。可能な限りの備えをしてやり過ごすしか手がないのだ。

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2014年07月06日

決め事。

「夏の日差し」

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今日のランチは、鉄人とかみさん、母と3人で近くのファミレスに出かけた。ドリンクバーに飲み物を取りにいった時のことである。母は足が悪いのだが、なるべく歩かせる様にしている。歩かないと足が萎えてしまうからだ。

今日もドリンクを取りに行くとき、鉄人が序でに母の分を取って来ても良かったのだが、なるべく歩かせようと母に取りに行かせた。ところがかみさんが母に付いて行く。何故かなと思ったら、母はドリンクの種類が書いてある文字が見えなかったのである。

母は糖尿病の合併症で目が悪い。大きな字は何とか読めるのだが、小さい字は見え難いらしい。だからドリンクを自分で取りに行っても字が見えないので、ドリンクを選べず操作も出来なかったのである。店に入る前も車止めの縁石に躓いていた。

目が悪いのも足が悪いのも可哀想だとは思うが現実なので仕方がない。昔は良く見えてたのにと母は悔やんでいたが、それは過去のことである。今は悪いのだ。その現実を直視する必要がある。

そこで母と決め事をした。それは、「見え難ければそれをちゃんと言うこと」。人はそれぞれ助け合って生きているのである。自分の足りない部分を誰かが補う。それで社会というものは成り立っているのだ。

母の目の不自由さの程度は息子の鉄人でも分からない。だから見え難くて不便なときは、それを声に出して周りに伝える必要があると思うのだ。伝えられた者は、母の目の代わりになり淡々とサポートすればいいのである。

無理をすれば逆に迷惑が掛かる。勝手な行動をして躓いて怪我をしたりする方が、自分にとっても周りにとっても困ることになる。

母の老いた姿は、数十年後の己の姿である。誰もが老いて行く。それは必然でありそれを卑下する必要はない。自分が出来ないことが出てくれば、それを素直に言葉にし誰かにサポートしてもらう。勿論感謝は大切だが、それが当たり前の行為であることも大切なことだと思う。

「困ったことがあればちゃんと言葉にして言う」。以心伝心はないのである。



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2014年07月05日

散歩。

「農に生きる」

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今日は久しぶりにかみさんと散歩に出かけた。コースは何時もの道、八幡川に沿って作られたジョギング用の道である。

往復で約3キロ、車も通らず見晴らしの良い道である。この道は川土手にあるので民家がそれより少し低い位置にある。その家々が川土手の法面に様々な花や木を植えている。それが季節ごとに変化する。これを愛でながら散歩するのが楽しいのである。

杏の実が成っている。手が届く位置に成っているのだが、かみさんがその実を本気で欲しがっている。他人の家の杏の木なんですけど。

無花果の実はまだ小さい。合歓の木のふわふわしたピンクの花が風に揺れている。夾竹桃の小さな白い花が一輪静かに咲いていた。以前歩いた時とは同じ様で違う風景。そんな小さな変化に気持ちが豊かになれる。

無趣味な鉄人だけれど散歩は悪くない。タダだしダイエットにもなる。植物の勉強にもなるか。面白いのは道ですれ違う人たちとの挨拶の時である。

鉄人はすれ違い様に相手よりも早く必ず挨拶をする。たまに無視される時もあるが、あっちから来た苦虫をかみつぶした様な表情をした人が、鉄人が先に挨拶をすると見事な笑顔で挨拶を返してくれる時がある。

そのギャップに軽い驚きと共にとても暖かい気持ちになるのだ。やはり笑顔は良い。小一時間くらいの短い散歩だったけれど出かけて良かった。その散歩にケツが重い鉄人を誘ってくれたかみさんに感謝したい。

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2014年07月04日

集団的自衛権のこと。

「胡瓜の花」

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今、世間の最大の関心事は、「集団的自衛権」のことであろう。ある調査によると、その行使について賛成26%、反対26%、どちらとも言えないが41%になっていた。まさに真っ二つに世論が分かれているのである。

仏教的立場で言えば、仏教は武力の行使は容認していないので当然反対の立場になる。どころか、方便として「ノコギリの譬え」というものがあるのだが、たとえ今自分がノコギリで首を切られようとしていようとも、怒りを持って抵抗してはならないと教えているのである。

現実論としてこれは流石に難しい。で、鉄人の意見であるが、集団的自衛権行使の是非は問わない。ただ結果としては日本はそれを認めざるをえない立場なのではないかと思う。

それは日本は米国に戦争で負けたからである。鉄人は最近大河ドラマの「黒田官兵衛」を観ている。もうじき本能寺の変に差し掛かるところだが、そこで殺される信長のそれまでの敵に対する無慈悲ぶりが凄まじい。

君主は当然のこと、負ければ女子供まで打ち首や磔、負けた者に対してその処分は徹底的に冷酷なものである。戦争で負けるとはそういう可能性があるものなのだ。

戦勝国にどんな不条理なことを出されても、敗戦国はそれを無視することはできない。おまけに日米は同盟国である。それが現実なのではないだろうか。

ただ人間とは、つくづく愚かな生き物だとは思う。
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2014年07月03日

ヴィンテージ。

「灯り」

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鉄人は撮影で様々な会社や店舗を訪問する。そのそれぞれに違いがあり面白いのだが、いわゆる「老舗」と呼ばれている会社やお店には特に親しみが湧く。

鉄人自身が昭和の人間であるせいかもしれないが、「時代」を感じさせるものにはこころが何故か和んでしまうのである。

そんな時代を感じさせる会社やお店には、それだけ長く経営を続けてこられた理由があるはず。それは結局、「信用」ということになるのではないだろうか。

地元の人々に信用され愛されて来たからこそ「老舗」と呼ばれ、生き続けてこられたのだと思う。起業しても10年以内で9割以上が倒産する。新しい商売を始めるというのはそれだけ難しいものなのだ。

老舗は、そんな厳しい世界で50年100年と生き続けて来た。その努力は大変なものだったであろう。そんな時間を積み重ねて来て今がある。時間を積み重ねることで信用も積み重ねてきたのである。

だからそんな場所を訪れると「信用」という空気に触れこころが和んでしまうのかもしれない。現代は時間の流れが早い。あっという間に世の中の構造が変わっていく。老舗にとっても生き難い時代に違いない。

ある老舗の喫茶店を仕事で訪ねた。鉄人と同じ歳のお店だった。店内をほのかに照らす灯りは自分が生まれた時から灯っていたのだろうか。老舗でしか味わえない温もりのある灯りであった。
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2014年07月01日

斉藤一人。

「莢豌豆」

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たまたまYouTubeで遊んでいたら、斉藤一人氏の講演会の動画が出て来た。動画というのは相応しくない。彼が映像に映ることはないからだ。音声のみの登場であった。

彼は知る人ぞ知る人物である。何と言っても個人納税額日本一というのが彼の金看板。自らを商人と称している経営者である。

鉄人の以前の人生の師匠なのだ。今ではその師匠はお釈迦様という絶対的な存在に移ったが、それまでは斉藤一人師匠に随分お世話になった。

久しぶりに彼の講演会を聴いてみた。その独特なキーの高めのだみ声と天性のユーモアセンス、そして抜群の頭の切れは健在であった。

しばらく彼の声を聴いているうちに鉄人に変化が起きて来た。気分が明るくなってきたのである。ご存知の様に、ストレス性の十二指腸潰瘍を患っていて体調が優れない。体調が優れないとそれに連動して気分も落ち込み気味であったのだ。

ところが講演会が進むうちに気分がどんどん明るくなり、最後には鉄人すっかり元気になったのである。仏教的論理から見れば、彼の話には辻褄が合わない部分が相当ある。

だが気分は確かに良くなった。何故かなと思ったら、彼の話には世俗で明るく生きていく為の様々なヒントがちりばめられていたからである。

彼の話には、神様や魂、守護霊などがやたら出て来る。その存在は証明はできないのだけれど、その証明出来ない存在が、一人ワールドでは非常に明るい。

彼の講演会は、始めから最後まで、漫才か落語でも聴いている様な徹底した明るさがあるのである。鉄人はその明るい波動に触れ、いつの間にか元気を取り戻していたのである。

流石だと思った。彼の絶大なる人気は、成功した経営者という側面だけではなくて、常に徹頭徹尾明るく生きている太陽の様なその性格にあったのだ。

鉄人はとんでもない成功者にはなれないかもしれないが、「いつでもどんな時でも明るい人」にはなれるかもしれない。鉄人だって明るい人が好きなのだ。

久しぶりに斉藤一人師匠に出会ったのだけれど、確かに魅力的な人物ではある様だ。





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人間の性。

「雨に咲く」

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鉄人は今夜、かなりの長い時間まんじりともせずテレビでワールドカップを観ていた。サッカーにさして興味もない鉄人なのにである。

かみさんは飲み会で家にいない。長男はスタジオで誰かの撮影をしている。バイトの撮影なので鉄人は完全ノータッチ、その様子を伺い知ることはない。

母は自分の部屋で寝ている。次男は自分の部屋でゲームをしている様だ。てな訳で鉄人、何となくひとりぽっちなのだ。最近はそんな様子を「ぼっち」というみたいである。

さしずめ「ぼっちワールドカップ」と言ったところか。で、ぼ〜っと観ていたワールドカップであるが、これが面白いのだ。ダイジェストなので、ゲームのハイライトばかりを繰り返して放送する。人間の喜怒哀楽の極みがそこに映し出される。ゲーム自体も白熱していて面白いのだが、何の演技もないむき出しの感情がテレビの中で爆発している。それが人間臭くて面白い。

その様子は仏教的価値観で言えばまぁ〜アウトである。多くの感情が苦しみを生む原因だからだ。考えてみれば、サッカーはボールを足で蹴ってゴールに入れるという基本的には単純なゲームである。それに世界中の何十億人という人間が熱狂しているのである。

中には死者まで出ているケースもある。そこまで人間を熱狂させるサッカーというゲーム。ワールドカップという舞台。普段の生活では裃を付けて暮らしている様な立場の人間さえも、ここでは裸になってしまう。

ワールドカップは、善かれ悪しかれ人間の「性」を否応もなく曝け出す、そんな舞台の様である。何となく時間つぶしに観ていたが、鉄人にとってはそんな人間の一員である己を知る上でも意外に貴重な時間だった様だ。

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