2014年04月05日

ふたつの流れ。

「穏やかな午後」

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「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」

ご存知、鴨長明の方丈記の冒頭の一節である。日本中世文学の代表的な随筆のひとつだが、この世の無常を川の流れに喩え見事に表現している。

鉄人も学生時代この方丈記を学んでいる。しかしその本質を何処まで理解出来ていただろうか。この世の無常を、川の流れで現したことは理解出来るが、その川の流れは自分自身でもあることまでは、多分理解出来ていなかったであろう。

自分の目の前を流れて行く水は世間のことで、自分はそれを眺めている傍観者。自分自身が流れの絶えない川そのものであることに、人は意外に気が付いていない。

そう、自分という存在そのものが、「流れの絶えることない川そのものなのである」。仏陀は、自分というもの、あるいは生きるということを「ふたつの流れである」と説かれた。

存在というのも語弊があるのかもしれない。何も留まらないからだ。流れさるものに存在という言葉はふさわしくない気がする。

「ふたつの流れ」とは、「こころの流れ」と「物質的な流れ」である。「物質的な流れ」は、我々なら「体」になる。我々とは、「こころの流れ」、と「体の流れ」なのである。

一瞬も留まることなく流れ続けているのが我々なのである。こころも一瞬も留まらない。常に変化している。体も一瞬も留まらない。これも常に変化をしているのだ。

この「ふたつの流れ」が我々人間なのであると仏陀は説かれたのだ。この言葉に反論出来るであろうか?鉄人は出来ない。自分自身を観察すると、一瞬も留まることなく変化していると実感できるからだ。

それ以外に何があるのだろう。絶対神か?絶対ということは完全ということである。完全ということは不変ということでもある。変わらないということだ。変化とは生滅である。何かが生まれてそれが滅する。それが変化なのだ。完全なものに変化はない。

鉄人のこころや体を観察すると、絶えず変化生滅している。そこに絶対神を見出すことはできない。無神論ではなく自分自身の観察からは見つけきれないと感じたのだ。

川の流れに小さな紙の船を浮かべてみる。流れに沿って、あっという間に遠くへ行ってしまうだろう。でも目の前に浮かべていたいので、その船を苦労して捕りに行って、もう一度目の前に浮かべてみる。はたして紙の船はその場に留まっているだろうか。

間違いなく先程と同じ様に、川の流れに沿ってまた遠くへ行ってしまうのだ。何と無駄なことであろうか。でも普段我々が自分の人生の中でやっていることは、これに似てはいないだろうか。

自分というものは「流れ」なのに、無理矢理にでもある地点に留まろうともがいている。しかし留まることは不可能である。それで苦しむのである。何処かに留まるということは不可能であり幻想なのだ。だから「執着を捨てよ。」と、仏陀は説かれるのである。

全ては流れているのである。宇宙も世間も目の前の家族もそして自分も。何一つ留まらない、そこに実体や自我などあるはずもないのである。

我々自身が流れなら、流れに逆らう意味はない。鉄人はそう思うのである。
posted by masa at 23:51| Comment(2) | 日記