2014年04月30日

人生写真。

山田様4.jpg

新規事業がスタートした。その内容は「生前(遺影)写真」の出張撮影である。鉄人のサイトでは「人生写真」と銘打っている。

生前写真も昔よりは市民権を得ている。最近は「終活」といって人生の終わり方を積極的に考える風潮も出て来た。鉄人は以前より生前写真の必要性を感じていたのだが、ただスタジオで椅子に座って撮るだけでは、場合によってはその人が歩んで来た人生が伝わり難いのではないかとも感じていたのだ。

慣れ親しんだ場所で、家族に囲まれながらもっとリラックスして撮れないだろうか。お年寄りの中にはお身体がご不自由になり遠出が出来ない方もおられるだろう、そこでカメラマンの方からお客様のところまで伺って撮影したらどうだろうか。

そんな思いでこの新規事業を始めたのである。遺影写真は何十年もあるいは百年以上も遺族の家の部屋に飾られる。できれば生前のその人らしさが出ているそしてきれいな写真の方が良いだろう。その為にはプロカメラマンがちゃんと撮影して、メイクさんがちゃんとメイクして、ちゃんと画像修整も施して、これは本当にその人らしい素晴らしい写真だと思われる様なものにしたかった。

だから体半分が他人の背広姿の合成写真だとか、取りあえず写っていればいいという様な写真にはしたくなかったのだ。こちらから出張して、お客様と時間をかけて親しくなってその人らしい表情を撮る。

さらにお気に入りの服や着物を着たり、カープファンならカープのユニフォームを着て写るのも楽しいかもしれない。場所も普段暮らしている自宅の居間や書斎が背景に写っていたり、散歩道や仕事場でも良いだろう。その人がそこに何時もいたんだなと思わせる場所。そんな写真が撮れるのも出張撮影の魅力だと思う。

見本写真はお客様の自宅の床の間を背景に撮影している。お気に入りの洋服を着て大変ダンディである。その人の生活空間の歴史とおしゃれ好きという人柄、そういうものが写せたと思う。

Yahoo!を検索したら「人生写真」のサイトを探せる。「生前写真」「遺影写真」「出張撮影」などがキーワードだ。遊びに来てください。

仕事は仕事なのだが、鉄人の今後のライフワーク的な作品作りとして続けていきたいと考えている。
posted by masa at 23:24| Comment(0) | 日記

2014年04月29日

ちっちぇ〜!!

「森を清める。」

森を渡る霧.jpg

「ちっちぇ〜!!」、最近よく鉄人がかみさんに言われる言葉である。最初意味が分からなかったが、どうやら「男としての器が小さい」という意味らしい。

それを知って鉄人憮然としたのだが、憮然とすることも「ちっちぇ〜男」らしい。今朝も言われた。昨日パン屋にかみさんと出かけてお好みのパンを買って来た。そのパンを今朝食べようとしたのだが、鉄人が食べる前に最初の一口をかみさんに齧られたのだ!!

折角楽しみに朝食まで取っておいたパンを隙を見て食べられた訳だ。まるで先発ピッチャーがまっさらのマウンドに上がる直前に、何処かのガキにそのマウンド付近を走り回られた様なものである。

当然鉄人烈火の如く怒る。「何をするんだ〜!!」。そこにあの一言である。「ちっちぇ〜!!」。

鉄人の烈火は消化器をかけられた様に急にしぼんでしまった。

この言葉は鉄人には相当効き目がある。「それがどうした」と、開き直れないちっちゃさと「ちっちぇ〜」と言われたくないちっちゃさがあるからだ。

ある人が言っていたことだが、相手が言った事が当たっていれば、当たっているのだから素直に認める。そこに怒りは生まれない。逆に相手が言ったことが当たっていなければ、自分とは関係ないことだから無視する。そこに怒りは生まれない。なるほど・・・。

「ちっちぇ〜」と言われて憮然とする鉄人は、どちらにしろやはり「ちっちぇ〜!!」のである。
posted by masa at 22:42| Comment(0) | 日記

2014年04月27日

問題山積。

「蒔く人」

蒔く人.jpg

問題山積なのである。大きい問題小さい問題。直ぐに解決出来そうな問題、難しそうな問題、解決が出来そうにない問題。一つ解決してもまた新たな問題が生まれる。次から次と問題が出て来てなくなることはない。

これは別に鉄人に限ったことではない。皆問題を抱えているのである。そして問題は次から次へと生まれなくなることがないのだ。ある高名な経営者の言葉だったと記憶しているが、死んでも問題はなくならないと言っていた。

人間死ねば死んだで、葬式をどうするか、墓はどうするか、遺品の整理は、相続はどうなるだろうなど、やはり問題は山積みなのである。死んだ本人は次の世に問題の種を持って行くらしい。逃げられない様である。

人は問題を自分で拵えている節がある。人間関係が増えれば楽しいことも多いかもしれないが、同じくらい面倒なことも増えてくる。鉄人も自らが進んで作った人間関係で問題を増やしているのだ。

付き合いが増えると頼まれごとも増えてくる。放っておけば楽かもしれないのだが、自分が頼む場合も出てくる。放っておけないのでその頼まれごとを引き受けるのだが、これで悩むのである。

容易く解決出来ることならいいが、頼まれごとは大抵ややこしい。だから悩む。問題をひとつ増やしてしまった訳である。

人は自分勝手である。自分の都合なのだ。皆自分の都合で生きているから問題が生まれているとも言える。常に周りを慮っていれば、人間関係での問題は随分少なくなるのではないだろうか。

仏教では、今目の前のことをただ淡々と粛々と、そして集中して行うことが大切であると教える。確かにその通りである。鉄人もその様になるべく心がけ成果が出ていることも実感している。

ただ完全に集中出来ているかといえば、否である。山積している問題に心は乱れ目の前の行為に集中出来ていない己がいるのだ。

妄想が止むことなく頭の中をぐるぐる回っているのである。それでは頭も心も疲れる。鉄人もしかりである。取りあえず寝ることにしよう。

posted by masa at 00:18| Comment(2) | 日記

2014年04月25日

雪塩。

写真.jpg

少し前ブログで「天然塩」の大切さを取り上げた。天然塩の効果を知った鉄人が、その塩を探し求めて辿り着いたのが、写真の塩「雪塩」である。

「雪」という文字が入っているが、本物の雪とは関係がない。雪の様に白いから命名されたのであろう。産地は雪の降らない南国宮古島である。

この雪塩、珊瑚からできている。というか珊瑚の海の珊瑚のミネラル成分を大量に含んだ塩なのだ。

人間の体の水分は、海と同じ成分でできていると言われている。雪塩は天然塩なので、そのミネラル成分がそのままのバランスで含まれているのである。モンドセレクションで、国際優秀品質商品にも三年連続選出されていて、その評価は高い様だ。

この塩、雪の様に白いのが特徴だがもうひとつ、パウダーの様に細やかなのだ。雪塩を摘んでも指に感触がない。鉄人が知る限りではこんな細やかな塩は他には見当たらない。

そして抜群に美味いのである。天然塩は、実は「甘い」。砂糖甘さとは異なる自然な甘さである。その甘さの特徴が如実に出るのが、おにぎりである。雪塩でむすんだおにぎりの自然の甘みは、米の甘みと相まって言葉にできない美味しさになる。当然体にも良い。

120グラムで600円。普通の食塩よりは高いが、これで半年持つ。費用対効果は抜群だと思われる。というより雪塩を食塩と比較するべきではないと思う。塩は塩でもまったく別物だと思うからだ。

わずか600円で、健康と美味しさを手に入れることができる。信じられない程安い!!と考えた方が妥当だ。

鉄人は雪塩のメーカーの営業マンでは当然ないのだが、口コミが最高の営業マンなのである。雪塩をずっと使いって行きたいし、この塩の良さを皆に知ってもらって、健康になってもらいたい。そういう思いは強い。

この600円は、大変に価値のある600円だと思うのである。
posted by masa at 10:22| Comment(0) | 日記

2014年04月21日

人間の本質。

「若葉の頃」

若葉の森.jpg

韓国のセウォル号の沈没事故は、いまだ進行形である。多くの人命が失われ本当に痛ましい。安否を気遣う家族の様子に、日本人とはその感情の表し方が多少違うなと感じたが、悲しいという気持ちには日本人も韓国人もまったく違いはない。

否、万国共通である。かみさんはよく韓流ドラマを観ているが、それを観ているということはドラマの登場人物の感情の流れを理解できるからである。

人間というものは文化や風習などの違いはあれど、本質は何も変わらないのだなあと思う。仏教は唯一の世界宗教だと言われている。本当は仏教は宗教のカテゴリーには入らないと鉄人としては思っているのだが、その教えは国籍や人種を超えすべての人間に対する教えになるのである。

何故なら仏教は、人間の本質に対して訴えかけるものなので、そこに国籍や人種は存在しないのである。生きとし生けるものは一様に苦しみの中にいる。生きる苦しみ。老いる苦しみ。病む苦しみ。死ぬ苦しみ。どんな生き物でもそれは何も変わらない。

現在不仲だといわれている韓国人だろうと日本人だろうと中国人だろうと、老いて病んで百年前後で死んで行くその本質は何も変わらないのだ。白人黒人黄色人種という括りでもそれはまったく同じである。

だからテレビに映る韓国人の家族の悲しみに我々日本人も共感するのである。これは仏教に於いてもとても大切なことで、このことを理解することにより慈悲の心が生まれるからだ。

敵対する国どうしでも、家族の単位で考えれば夫婦の愛情も家族の愛情も同じ様にあるのである。ただその愛する気持ちの範囲が狭いのだ。そこで誰でも本質は同じだなあと理解すれば、もっと広い視野で世の中を眺められるのではないだろうか。

セウォル号の事故は、テレビを通して我々に様々な人間という生き物の側面を映し出す。善くも悪くも教えられることが多いのである。


posted by masa at 23:02| Comment(0) | 日記

2014年04月18日

結果自然成 けっかじねんじょう

「芽吹く」

芽吹く.jpg

道元禅師の正法眼蔵十四空華(くうげ)の中に「結果自然成」という言葉が出てくる。元々は達磨大師の言葉で、「結果というものは人知を超えたもので、花が咲く如く天地自然の縁起で成るものである」、ということらしい。

やるだけのことを精一杯やったら、後の結果は自然(じねん)に任せて、平常心でいなさい。と教えられている様だ。時と場合によっては、いくら努力しても思う様な成果が出ないことなどしょっちゅうである。いやそういうことの方が、思い通りの結果が出る時よりはるかに多い。

鉄人も仕事や普段の生活で結構頑張って努力しているつもりだが、なかなか思う様には行かないのが現実だ。それは鉄人というひとりの人間の思いを超えたところで世界が動いているからである。

努力は必要である。でも懸命に努力しても結果が伴わないこともある。そんな時は、「しゃ〜ない」と思うしかない。それ以上頑張り様がないからだ。

ひとは努力しても結果が出ないと落ち込む。でも「しゃ〜ない」時も実際あるのだ。「しゃ〜ない」と思えればこころも明るくなり、違う動きもできるというものである。

鬱病の人などには、実に効果的な言葉ではないだろうか。「しゃ〜ない」と思えないから苦しむのであるから。

「結果自然成」、この言葉で鉄人は気分が随分楽になったのである。

posted by masa at 22:46| Comment(0) | 日記

2014年04月17日

塞翁が馬。

「店先」

DSC_0011.jpg

ブログの背景が替わった。管理人さんが写真がもっと大きく良く見える様に替えてくれたのだ。爽やかなイメージになって、ちっとも爽やかじゃない鉄人にはいささか勿体ない?

話しは変わるが、四月の始めから行きつけの小料理屋が休業していた。鉄人の誕生日のブログに載っている店である。かみさんが昨日お店が入っているマンションの大家さんに理由を聞いたところ、店主が大型バイクで事故を起こし、骨折して入院しているとのことである。

そりゃ大変だなあお気の毒にと思ったのだが、その入院先でもっと大変なことが分かったのである。動脈瘤が見つかったのだ。破裂したら命にも関わるということで、骨折そっちのけで即手術。ことなきを得たのである。

まさに「塞翁が馬」。バイク事故で怪我をしていなかったら静脈瘤はまず見つかっていなかった訳で、早晩破裂していたかもしれない。場所が悪けりゃアウトである。骨折も数カ所していたらしく、それも痛いっちゃあ痛い。取りあえず命があってよかったね。といったところか。店主は現在リハビリ中である。

もうひとつ。昨日息子がパンクを直しに修理工場行っていたのだが、そこの親父さんから鉄人の友人が入院中だと聞いて来た。あのミリタリーコスプレ野郎である。風邪気味で病院に行ったら肺炎と診断されて即入院。そこで血液検査をしたらしいのだが、血糖値が異常に高かったらしく肺炎プラス検査入院になってしまった。

これも「塞翁が馬」。肺炎で病院に行っていなかったら、異常に高い血糖値を発見できなかったことになる。そのまま放っていたら確実に糖尿病になっていただろう。

この様に人生は、「塞翁が馬」の連続である。何がどう転ぶか見当もつかない。鉄人も新しい仕事が舞い込んで来たかと思えば、ドタキャンされたり、でもそのドタキャンされたところにまた新しい撮影が入ったりと、予想がつかないことこの上ない。

「なる様にしかならんな」と諦めの心境なのである。

posted by masa at 22:39| Comment(0) | 日記

2014年04月15日

チェロ・アンサンブル。

写真.jpg

今日はクラシックコンサートに出かけていた。コカコーラ主催の無料のコンサートなのだが、応募数が凄い。千数百人の定員のところに六千人以上の応募があった。

かみさんは3枚応募ハガキを出したらしいのだが、その3枚ともが当選。鉄人とかみさん、そしてかみさんのご友人で聴きにいくことに相成ったのだ。

今回はチェロのアンサンブルである。鉄人以前からチェリストのヨーヨーマが大好きだったので、今回の企画は嬉しい。主役はウェン・シン・ヤンというチェリストで、スイス生まれの台湾人である(国籍はスイスになるのかな)。

長身痩躯の穏やかな紳士で、演奏も素晴らしいものであった。最大8名、最少4名のアンサンブルで、ハイドン、サン・サーンス、ビゼーなど曲目も変化に富んでいた。

終盤はタンゴが続く。チェロにはタンゴが似合う。クラシックコンサートなのでオーディエンスは一見静かに聴いているが、本当は手拍子やその場で踊り出したいほど、皆ノリノリである。

大喝采の内にコンサートは終了。家路を急ぐ人々をかき分け表に出たら、空には見事な満月が浮かんでいた。月もタンゴを聴いてたか。


posted by masa at 23:26| Comment(0) | 日記

一畳ほどの春。

写真.jpg

鉄人のスタジオの玄関ドアの横に庭がある。否、畑がある。広さは畳一枚ほど。家の玄関横にも庭がある。否、畑がある。これは畳二枚ほど。これが我家の庭、否、畑のすべてである。

こんな猫の額、否、ミミズの額ほどの畑にも春は来る。シンボルツリーのやまぼうしにも若葉がほんの少し出て来た。金木犀の若葉はそろそろ剪定が必要なくらい伸びている。

かみさんは毎年春になるとこの狭い畑にプチトマトの苗を植える。かみさんは植物を育てるのが上手い。お陰で毎年たわわに実ったプチトマトを食べることができる。

家で育てたプチトマトはとびきり硬い。そして美味い。ガリガリと食べている感覚である。わずか数本苗を植えるだけだが、それでひと夏分のプチトマトが賄える。ミミズの額ほどの庭、否、畑でも役に立っているのだ。

一句。

庭畑 一畳もなし 韮植うる  にわばたけ いちじょうもなし にらううる

                                 鉄人

推敲。

庭畑 一畳もなし 葱植うる  にわばたけ いちじょうもなし ねぎううる

                                 鉄人

posted by masa at 00:22| Comment(0) | 日記

2014年04月13日

里親。

「屋根の上の吾輩」

2002_0201_135630AA.jpg

かみさんとテレビを観ながら、子供達が家を出て行ったらペットでも飼いたいねえと話しをしていた。考えてみればそう遠くない未来のことである。

根本仏教では、生き物の売買を禁じている。このことについては反論がお有りの方もいらっしゃると思うが、鉄人は修行者の身であるから、当然その教えには従う。

ペットをお店で買えない訳だから、それ以外の方法として里親になるということを知った。早速、それはどんなものかとネットで調べてみたのだ。

我家はかみさんが猫が苦手なので、自然と犬を求めることになってくる。広い庭などないので、家の中で飼うことになるから大型犬は難しくなる。

小型で幼い犬を探してみた。そういった里親を世話するサイトには多くの犬達が紹介されていた。そしてその中には赤文字で「緊急」と、書かれた犬達の紹介もあったのだ。

この「緊急」と赤文字で紹介されている犬達には時間がないのである。期限を過ぎたら殺処分されるからである。その犬達の無邪気な可愛い顔、あるいは寂しそうな顔の写真を見ていたら堪らなくなってきた。

これら殺処分されるかもしれない運命に犬達をしたのは、すべて人間の責任である。そしてそれを鉄人は救えない。数日後数週間後には、ここに写っている犬達の多くは殺されると思うと、何だか堪らなくなってきたのである。

たとえその中の一匹の里親に鉄人がなったとしても、それ以外は救えない。そしてその一匹を選ぶのはどんな基準で選ぶのかを考えたとき、結局は嗜好で選ぶのではないかと・・・。

ただ一匹でも救えれば、それはひとつの「縁」である。縁とは人間同士だけのものではない。数えきれないほどの輪廻転生の中で、我々は人間にも生まれ、また違う生命体にも生まれ変わっている可能性がある。

仏陀は、人間に生まれるのは極めて稀であると説かれている。ということは人間であるとき以外は、極めて長い時間人間ではない生命体として生きていたことになるのだ。

里親探しのサイトに出ている犬達も、前世の何処かで人間であったのかもしれない。我々と何処かの前世で出会っていれば、それは「縁」である。その様な縁のある犬をきっと選ぶのであろう。

またサイトで紹介されている犬達が前世の何処かで人間だったのかもしれないと思えば、殺処分とは何と残酷なことであろう(勿論犬としても残酷)。生きる為に食用として仕方なく他の生命の命を奪うこととは次元の違うことだと思う。

人間の責任として、ペットを飼うなら殺処分されないように最後まで面倒を見ることが大切なのではないか。鉄人はそうつくずく感じるのである。

posted by masa at 23:37| Comment(0) | 日記

2014年04月12日

くしゃみ先生。

写真.jpg

主人は平気な顔で鼻毛一本一本丁寧に原稿用紙の上へ植付ける。肉が付いているのでぴんと針を立てたごとくに立つ。主人は思わぬ発見をして感じ入った体で、ふっと吹いてみる。粘着力が強いので決して飛ばない。「いやに頑固だな」と主人は一生懸命に吹く。

夏目漱石の「我が輩は猫である」の一節である。抜いた鼻毛を一本一本原稿用紙に立てて並べるのは、くしゃみ先生という登場人物だが、この人物のモデルは夏目漱石本人だと言われている。漱石には変な癖があったようだ。

写真に写っているものは、黒いペンではない。実は鼻毛切りなのだ。鉄人も鼻毛を抜いて、立てまではしないが紙に並べるというおぞましき悪癖があった。たまにびっくりするほど長い鼻毛を抜いたときには、妙に嬉しくなったものである。

しかし考えてみると、そこまで長くなった鼻毛を抜いたということは、そこまで長くなるまで鼻の中にあったことになる訳で、その長い鼻毛の先端が知らぬ間に鼻の穴の外に伸びて出ていたかもしれないということが、容易に想像が出来るのだ。

鉄人も客商売である。若い女性にモテようという訳ではないが、知らぬ間に鼻の穴から出ている鼻毛を見られるのは、恥ずかしいし相手も不快であろう。

ということで、趣味(?)の鼻毛抜きを諦めて、鼻毛カッターを購入したのである。パナソニック製でお値段は1,000円。アマゾンだ。この鼻毛カッター、鼻毛専用ではなかった。眉や髭を整えたり、耳の産毛まで切ることが出来る。思った以上に多様に使えるのである。

早速試してみる。良く切れる。鼻の中の様子は窺い知れないが、耳の産毛は綺麗になくなったし、眉も簡単に整えられた。これは重宝しそうである。
posted by masa at 15:56| Comment(0) | 日記

2014年04月11日

訃報。

「ふる里の春」

DSC_0082.jpg

昨夜、訃報のメールが届いていた。あるクライアントの社長さんが、九日、突然逝去されたというメールであった。亡くなられた当日までお元気に働かれていたそうだ。

東京の会社の社長さんだが、直接お会いしたこともないし、お顔も存じない。しばらく仕事自体もなかったので、深いお付き合いをしていた訳ではない。

喪主はご長男であった。多分、亡くなられた社長は鉄人の年齢に近いのだろう。以前お電話でお話をしたことがあったが、明るく元気なお声で、現役バリバリの経営者だったに違いない。それが突然の別れ。やはり世の無常を感じずにはいられない。

浅いご縁だったかもしれないが、すべては繋がっているのである。お仕事をさせていただいたのも「ご縁」。こうやってお悔やみのブログを書いているのも「ご縁」。短い今生の中で「ご縁」があった、数少ない人々の中のおひとりなのである。

初期仏教の教えでは、亡くなられた社長は、既に次の世に一瞬で生まれ変わられている。解脱しない限り輪廻は終わらないというのが初期仏教の死生観なのである。

次の世界でもまた社長をされるのであろうか。

一句。

繚乱の 桜もすでに 散ると観ん りょうらんの さくらもすでに ちるとみん

                                  鉄人

推敲。

繚乱の 桜に散りぬ 姿観ん りょうらんの さくらにちりぬ すがたみん

                                  鉄人
posted by masa at 23:54| Comment(0) | 日記

2014年04月10日

担々麺の思惑。

「落花」

DSC_1048.jpg

今日の昼、鉄人はかみさんとデパートで昼食を摂った。かみさんは無類の担々麺好き(鉄人は彼女のことを担々麺子と呼んでいる)、そのデパートにある中華レストランの担々麺が一番好みらしく、達っての希望で本日その担々麺を食べることにしたのだ。

デパートの中華レストランと言っても大変リーズナブル。鉄人は1,000円の担々麺と炒飯、飲茶、杏仁豆腐のセット。かみさんは担々麺と炒飯のセットを頼んだ。これは860円。

鉄人の方が少々豪勢である。やがてふたつの担々麺セットが運ばれて来た。そのとき鉄人は機転を利かし、かみさんに1,000円のセットをあげ、自分は安い方のセットにしたのである。

どちらにも担々麺と炒飯がある。おまけに1,000円の方は、それ以外に飲茶や杏仁豆腐まであるのだ。鉄人の咄嗟の判断でのクリーンヒット、かみさんも喜んでくれるはずである。

ところがかみさんの表情が曇る。「何故だ?」どう見ても1,000円セットの方が豪華じゃないか。理由があったのである。1,000円のセットの方の担々麺が少〜し量が少なかったのだ。

なにしろあだ名が「担々麺子」である。担々麺に対する執着は尋常じゃない。折角デパートまで来て、大好物の担々麺にありついたのに、ちょっと量が少ない。それでいささかご不満だった様だ。


交換してあげると言ったが、今度は違う欲が出てきたみたい。やっぱり飲茶も杏仁豆腐も(餅もあった)食べたいのだ。量がある方の担々麺を食べたら、それらの御馳走が入らないかもしれない。事実、結果としてはちょうど適量だったみたいで、途中からはご機嫌であった。

小さな親切大きなお世話。ひとの気持ちはなかなか分からないものだなあ〜と改めて感じた次第である。


posted by masa at 23:30| Comment(0) | 日記

2014年04月09日

応援。

「カープ女子?」

DSC_5434.jpg

昨夜のことである。テレビでカープの試合を観ていた。回は八回裏、マウンドにはセットアッパーの永川が上がっていた。

永川がマウンドに上がると必ず横から聴こえてくる声がある。「また永川〜?」「あ〜この試合負けた。」「何で永川を出すんだぁ〜?」

かみさんの声である。かみさんは熱狂的なカープファンである。何時もは外から声が聴こえるくらい大声を出して応援している。しかし永川投手が出てくるとそのハイテンションがガクゥっと落ち、口から出て来るのは愚痴と悲観的な言葉ばかりなのだ。

トラウマがあるのだ。数年前、永川投手が救援に出て来る度に点を取られ、試合をぶち壊すという状況が続いた。ノーコンが主たる原因なのだが、このことがかみさんの永川投手へのトラウマになっているのだ。

今でも、彼が出てくる度に、怒気を含んだ声で、「また永川〜?」「あ〜この試合負けた負けた」と嘆くのである。気持ちは分からんでもないが、鉄人が応援しようという気持ちに水を差されるのは確かだ。一点差、さあこれからリリーフ陣頑張ってよ。という矢先に「また永川〜?」を、やられるのである。

昨夜は鉄人の虫の居所が悪く、「何でそんなに悲観的なんだ。勝つものも勝てないじゃないか。黙って応援しろ!!」と怒ってしまった。当の永川もフラフラしながらも何とか抑え、おまけに堂林も監督に嫌味を言われる様なホームランを打ち、あの巨人に完勝したのである。

おしゃべりのかみさんが「黙れ」と言われ、その後黙って応援していたが、勝ったのでず〜っと静かにしているのは不可能である。いつの間にか、何時ものハイテンションに戻っていた。

でもこれからも絶対言うんだろうなあ〜、「また永川〜?」
posted by masa at 15:40| Comment(0) | 日記

2014年04月05日

ふたつの流れ。

「穏やかな午後」

穏やかな日.jpg

「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」

ご存知、鴨長明の方丈記の冒頭の一節である。日本中世文学の代表的な随筆のひとつだが、この世の無常を川の流れに喩え見事に表現している。

鉄人も学生時代この方丈記を学んでいる。しかしその本質を何処まで理解出来ていただろうか。この世の無常を、川の流れで現したことは理解出来るが、その川の流れは自分自身でもあることまでは、多分理解出来ていなかったであろう。

自分の目の前を流れて行く水は世間のことで、自分はそれを眺めている傍観者。自分自身が流れの絶えない川そのものであることに、人は意外に気が付いていない。

そう、自分という存在そのものが、「流れの絶えることない川そのものなのである」。仏陀は、自分というもの、あるいは生きるということを「ふたつの流れである」と説かれた。

存在というのも語弊があるのかもしれない。何も留まらないからだ。流れさるものに存在という言葉はふさわしくない気がする。

「ふたつの流れ」とは、「こころの流れ」と「物質的な流れ」である。「物質的な流れ」は、我々なら「体」になる。我々とは、「こころの流れ」、と「体の流れ」なのである。

一瞬も留まることなく流れ続けているのが我々なのである。こころも一瞬も留まらない。常に変化している。体も一瞬も留まらない。これも常に変化をしているのだ。

この「ふたつの流れ」が我々人間なのであると仏陀は説かれたのだ。この言葉に反論出来るであろうか?鉄人は出来ない。自分自身を観察すると、一瞬も留まることなく変化していると実感できるからだ。

それ以外に何があるのだろう。絶対神か?絶対ということは完全ということである。完全ということは不変ということでもある。変わらないということだ。変化とは生滅である。何かが生まれてそれが滅する。それが変化なのだ。完全なものに変化はない。

鉄人のこころや体を観察すると、絶えず変化生滅している。そこに絶対神を見出すことはできない。無神論ではなく自分自身の観察からは見つけきれないと感じたのだ。

川の流れに小さな紙の船を浮かべてみる。流れに沿って、あっという間に遠くへ行ってしまうだろう。でも目の前に浮かべていたいので、その船を苦労して捕りに行って、もう一度目の前に浮かべてみる。はたして紙の船はその場に留まっているだろうか。

間違いなく先程と同じ様に、川の流れに沿ってまた遠くへ行ってしまうのだ。何と無駄なことであろうか。でも普段我々が自分の人生の中でやっていることは、これに似てはいないだろうか。

自分というものは「流れ」なのに、無理矢理にでもある地点に留まろうともがいている。しかし留まることは不可能である。それで苦しむのである。何処かに留まるということは不可能であり幻想なのだ。だから「執着を捨てよ。」と、仏陀は説かれるのである。

全ては流れているのである。宇宙も世間も目の前の家族もそして自分も。何一つ留まらない、そこに実体や自我などあるはずもないのである。

我々自身が流れなら、流れに逆らう意味はない。鉄人はそう思うのである。
posted by masa at 23:51| Comment(2) | 日記

2014年04月04日

瀕死のつがい。

「苦肉の策」

写真.jpg

体調が絶不調なのである。風邪をこじらせてしまったのだ。それも夫婦揃って。何処でもらったか定かではないが、鉄人がかみさんに移してしまった。

体調が悪いときに限って忙しい。クライアントに対し体調が悪いことなど言い訳にはできない。健康管理を疎かにしたのは自己責任であり、逆に迷惑を掛けることになる。

であるから絶不調ながら、仕事は通常通り行う。栄養ドリンクを買い漁り、風邪薬に胃薬、はたまた鎮痛剤なども飲みまくり、何とかやりくりしている状態である。

写真は居間をスタジオ代わりにしているところを写している。一階のスタジオは息子が写真を撮っていた。そこにもうひとつ、撮影用のセットを組めなくもないが、風邪が移るかもしれないと思ったのだ。

写真の右側の見えてないところで、実はかみさんが寝込んでいる。鉄人はその横でフラフラになりながら写真を撮っている。外は桜が満開。花見客は楽しそうである。天国と地獄?家の中と外とのこの違いがシニカル的で面白い。

かみさんは到頭病院に行った。点滴を打ってもらった様だ。鉄人は病院に行く時間がない。仕方がないので市販の薬をまた乱用する。

気力は衰えていないので写真の出来は問題がない。問題は仕事が暇になったときである。今無理しているツケが一気に来るのではないかと不安ではあるのだ。

かみさんは医者から、「随分風邪をこじらせましたねえ。」と、注意をされている。鉄人が無理に仕事の手伝いをさせたことが原因なのだ。鉄人もフラフラだったので、つい頼んでしまった。

多分かみさんより無理しているはずなので、このままでは済まないかもしれないと不安なのである。いっそずっと忙しい方が良いのかも。

ともあれ、まだ仕事は一段落しない。体調に細心の注意を払い、もう少し頑張るつもりである。

posted by masa at 22:52| Comment(0) | 日記

2014年04月01日

24時間。

「窓辺の花見」

写真.jpg

一昨日、日曜から昨日に掛けての24時間は、長いカメラマン生活の中でも初めて経験したものであった。

まず日曜日、お昼からスタジオで宝石の撮影を始める。4時頃に終了。5時からは場所を移し広島駅の近くのホテルでコスプレパーティの撮影をする。以前ブログで紹介した、あのミリタリールックのコスプレである。

大の大人が嬉々として写真に納まる。嬉々というのは正確ではない。軍人なので顔はキリリと威厳を出さなくてはならない。でも内心嬉々としているのだ。何とも憎めない人々である。

9時頃終了、取りあえず帰宅する。が、休む間もなく朝4時から大手スーパーのレストラン街で、新店舗の撮影があった。撮影に邪魔なものを片付けなければならないので結構面倒なのだ。誰もいない早朝のレストラン街で黙々と作業を続けた。

6時頃終了。取りあえず帰宅。そして昼頃、今度は宮島口にて料理の撮影をしたのである。24時間で4件の撮影。おまけのその内容が全て異なっている。流石にこんな経験は初めてである。

風邪美味でもありヘトヘトになったが、その4件の仕事の内、宝石以外はかみさんが付いて来てくれた。有り難いのである。
posted by masa at 12:38| Comment(0) | 日記