2014年02月28日

コスプレ。

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ミリタリールックの美魔女たちに囲まれニヤついているのが鉄人の友人である。今月末開催されるミリタリールックのコスプレ大会のフェイスブックでの告知用に撮影したものだ。

この男、とぼけた顔に似合わずなかなかの人物で、広島広しといえど、ミリタリー関係の収集と知識は、まず右に出るものはいない。

勲章や階級章を見ただけで、どのくらいの階級の軍人だとかどれくらい手柄を立てただとかが一発で分かるそうだ。写真の軍服も勲章の類いも全て本物(古着ではない)、どこまでも拘る人間なのである。

彼にとってはこれは趣味ではない(まあ趣味でもあるか)。ミリタリー関係の店をやっているからだ。今回のコスプレ大会も生活が掛かっているのである。

軍服に身を包み、美女に囲まれヘラヘラしている彼には軍人の勇ましさは何処にも感じられないが、周りを囲む美魔女たちの軍服姿はなんともかわいい。

熟女たちにかわいいというのもなんだが皆本当に似合っていて、厳つい軍服が逆に女振りを上げているのである。

鉄人はミリタリーには全くと言っていいほど興味はないが、今度のコスプレ大会ではカメラマンを務める。この告知用の写真みたいに、参加者にはポーズをとってもらって撮影する予定にしている。

ミリタリーのコスプレ愛好家といっても、参加者は皆平和主義者。軍国主義的思想など皆無である。自分が身につけている軍服の由来も知らないにわか軍人たちが、酒を酌み交わしながら地味〜にコスプレを楽しんでいるだけなのである。

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2014年02月26日

日本人には塩が足りない。

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「日本人には塩が足りない」、本のタイトルである。日本食塩研究会代表の村上譲顕という方が書いている。

日本人は、高血圧症が非常に多い。そして医者はその人々に対して、判で押した様に「減塩」を勧める。しかし現在高血圧症の患者はまったく減っていず、逆に増加の一途を辿っているというのが現状である。

そんな状態に、「本当に減塩するのが正しいのか」と疑問を持たれた村上氏が、自分自身の経験も踏まえて研究をされ、「減塩は必要がない」むしろ減塩は元気をなくし、健康を損なうという結論に至り、その根拠をこの本の中で述べておられる。

鉄人もご多分に漏れず高血圧である。当然医者からは減塩を厳命されている。しかし「減塩は危険である」と警鐘を鳴らしている医者も多数存在するのである。

同じ医者という立場として、真逆の処方をしていることになる。さてどちらが正しいのか。ブッダは、有名な人が言ったから、多くの人々が信じているから、だとしてもそれを鵜呑みにしてはならないと説かれている。自分で充分に調べ納得してから信じる様にと。

少なくても「塩」は人間にとって、いや生命にとって不可欠なものである。地球上の生命のふるさとは「海」である。その海の成分と生き物の血液のミネラルバランスは非常に似ているそうだ。

それを踏まえて考えてみれば、「減塩」は、そのバランスを崩すことにはなりはしないだろうか。生き物は「塩」をまったく摂らないと、とたんに元気がなくなり、最後は死んでしまう。塩は生命維持の為には最も大切なものなのだ。

だから医者が「減塩」を患者に勧める為にはその根拠となるものが必要になってくる。「医学の常識です」では危険すぎると思うのである。

日本の国土は、高温多湿である。だから汗をかき易い。汗をかけば、その汗と共に体内の塩分は外に出て行く。足りなくなった塩分は、当然その分だけ体内に取り入れなければならない。

ところが、医者が勧める塩の摂取量の基準は、欧米のそれで、日本より低いとこの本では述べている。日本と欧米では気候風土が異なるのに、欧米並みの少ない塩の摂取を、それが正しいことと決めつけて治療に当たっているのだ。医者は自分達でどれだけ調べたのだろうか。

また村上氏は、「塩」と「塩化ナトリウム」の違いについても言及している。今では、塩=塩化ナトリウムという感覚だが、塩化ナトリウムは純度が高くほとんどその他のミネラルを含まない。

しかし生き物にとって、実は大切なものが、その他の不純物といわれる様々なミネラルなのである。海水中の様々なミネラルをバランス良く含んだ自然な塩が、生き物を健康にすると村上氏は力説するのである。

そしてこの様な自然塩の摂取で、高血圧になることはないとも言われている。自然なものは、もしある程度過剰に摂取したとしてても、不必要な分は体外に放出されるからだそうだ。勿論摂り過ぎはいけないが。

鉄人は最近、自然塩が入った青汁を毎朝飲んでいる。自分を実験台にしている訳だ。今のところ調子は良さそうである。

鉄人の知人にも医者はいるが、皆どっか調子が悪い。別に医者を信用しないというのではないが、自分で充分に調べて、自分が信用出来ると思われる健康法を見つける必要があるのではないだろうか。生きるも死ぬも自己責任なのである。





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2014年02月24日

完結。

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到頭「ブッダの実践心理学」も完結を迎えた。足掛け8年、スマナサーラ・バンテーと藤本晃博士の共著は、「アビダンマ講義シリーズ 第八巻 瞑想と悟りの分析2(ヴィパッサナー瞑想編)」を最後に完結した訳である。

1年に一冊というペースでの発刊であったが、おふたりのご努力には、こころから感謝を申し上げたい。実は、第一巻〜六巻までは既に鉄人の手元にない。お寺にお布施している。あるのは七巻とこの八巻のみである。

正直言えば、鉄人にはアビダンマは少々手強い。スマナサーラ・バンテーが申されるには、誰にでも分かる様に簡便に書かれたそうであるが、鉄人には、「嘘でしょ」って感じである。

今までのシリーズは、すべてアマゾンで購入した。アマゾンの場合、中身をチラ見することができない。取りあえず買ってみて読んでみるのである。ところが手強い。

今回の第八巻は、初めて本屋で買った。中身をチラ見して、この内容なら何とか読めそうだと感じたのである。本はほとんどアマゾンで購入しているが、本屋で買うことの意味を再認識した次第である。

まだ数ページしか読んでいない。今まで学んできたことのおさらいというか、まとめ的な感じもあるが、あらためてその学んできたことが間違っていなかったことを再確認している。

ところで、鉄人は頭が良くない。なかなか本の内容がすんなりと頭に入っていかないし、理解するのにも時間がかかる。藤本博士など鉄人よりお若いのに理解するどころか本まで出されているのである。どんな頭をしていらっしゃるのだろうと思う。

で、鉄人は思うのだ。頭が良くない人間には、その人間なりの修行の仕方があるのではないかと。鉄人にとっては、アーチャン・チャー・バンテーの教えが一番しっくりくる。波長が合うのだ。人間の弱さをすべて認めて、その弱い人間がどうしたら修行していけるかを教えてくださる。

経典には載っていない現実を踏まえた修行法なのである。頭が良くなくこころも弱い鉄人でも、歩いていける道があることを教えてくださるのだ。

スマナサーラ・バンテーやアーチャン・チャー・バンテー、デニヤーイェ・バンテーなど、鉄人には多くの師匠がおられる。その教えを胸に、これからも独りで道を歩むのである。


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2014年02月23日

浅田真央論。

「語らい」

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ソチオリンピックが終わった。鉄人、オリンピックにはあまり関心がなく、その関係の番組を観ることも少なかったのだが、浅田真央選手のテレビだけは否応無しに観ることとなった。

ここ数日、何処のチャンネルを回しても、真央ちゃん一色である。画面も感動的シーンばかり放送するのでつい観てしまうのだ。

実は鉄人、ソチが始まる前に、真央ちゃんのことを予想したことがある。「メダルは多分獲れない」「有終の美を飾る」の2点である。

果たしてその予想通りになってしまった。鉄人は霊能者ではないので予言はできない。ただ彼女のタイプを分析して、多分その様になるのではないかと思ったのだ。

彼女は、幼い頃からフィギアスケートの世界で頭角を現し、「天才少女」と呼ばれていた。更に容姿にも恵まれ性格も素直、日本国民の関心の的であったのだ。

しかし年齢制限でオリンピックに出場できなかったり、早く母親を亡くしたり、ライバルのキム・ヨナに負けたりと、多くの苦しみを味わっている。

このタイプの人間は、人生の振り子の幅が大きいのである。苦しみが普通の人々より大きい分、喜びも大きい。その大きい振り子の幅を人々が観ていて感動を覚えるのである。

美空ひばり、長嶋茂雄、ジョン・レノン、マイケル・ジャクソンなどスーパースターと呼ばれる人物の全てが、明暗のコンストラスが激しい人生を送っている。

浅田真央も、フィギアスケート界に於ける不世出のスーパースターである。人々を感動させるのは記録よりも記憶に残る人物なのだ。

で、どのような演出ならその浅田真央というスーパースターが一番輝くのかを、鉄人、予想したのである。まずオリンピックという最高の舞台。第一幕は、苦戦を強いられると予想された団体戦への出場、そして残念な結果。その精神的肉体的ハンデを背負ってのショートプログラムでの大失敗、しかし最後にフリーでの完璧な演技。

このシナリオが、浅田真央というスターが一番輝く流れであったのだ。成績とすれば6位という彼女にとっては不本意なものである。しかし世間は最高に盛り上がっている。それは完璧な演出のドラマを観れたからである。

鉄人は、彼女が持つドラマ性に期待していた。必ず何かをしでかすと。努力家でチャレンジャーの彼女とすれば、ミスをしての金メダルより、たとえメダルを獲れなくても自分が思い描く完璧な演技をすることの方が、多分彼女にとっては重要なはずである。

そしてその願望は叶った。努力は必ず報われるとは限らないが、報われる可能性は高くなる。彼女の土壇場での最高の演技は、豊かな天賦の才能と共に、日頃の地道な努力での結果でもあるのだ。

何の才能もない鉄人だけど、真央ちゃんに見習うことは多いのである。
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2014年02月22日

純文学。

「老梅」

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最近、「英語対訳で読む日本の名作」という本を読んでいる。いわゆる純文学の範疇に入りそうな日本文学の書き出しとあらすじを、英語の対訳で書いてある本である。

「坊ちゃん」や「雪国」「羅生門」「源氏物語」などの、有名どころの日本文学が大体載っている。鉄人はこれらの本を中学くらいまでに結構読んでいたと記憶していたのだが、いざあらすじだけでも読み返してみると、ほとんど忘れているのだ。

さらにそれらのあらすじの内容が、相当えぐいことに気が付いた。不倫、自殺、事故死、放火、裏切り、差別などなどこれでもかと人生の不条理のオンパレードなのである。

こんな内容の文学を、人生経験の浅い年端も行かない子供時代に読んでいたのかと思うと、ある意味ぞっとしたのだ。そして興味が湧きそうな小説があったらもう一度読んでみようかと考えていたのだが、このえぐさには正直ちょっと付いていけない。

純文学は、フィクションである。作家が自分の想像の中から生まれ出したものである。勿論自分の人生経験も作品に加味される訳だが、やはり想像の産物であることには違いない。

そしてその想像が相当えぐいのである。純文学の作家には、自殺したものや精神を病んでしまった者も多い。また絶望の中で死んでいった作家もいる。作品は作家の心が投影したものである。特に純文学と言われる世界に於いては、その傾向は顕著かもしれない。

もちろんすべてではないが、その病んだ心が投影された作品を我々は読んでいるのだ。影響がないとは言えない。特に多感な青春時代に純文学を読むというのは時期尚早とはいえないだろうか。

美文に隠されたその屈折した精神に、鉄人は「無理だ。純文学はもう読めない」と感じたのである。読まずに分かるのかとお叱りを受けそうだが、想像は真理を超えることはできない。今の自分には文学はもう必要がないかなと、あらためて感じているところである。
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2014年02月21日

コンサート。

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今夜は、クラシックのコンサートに出かけていた。鉄人、柄にもなくクラシック音楽は意外と好きである。クラシック音楽のレコードやCDをそれなりに持っているが、今回は久しぶりの生演奏を聴ける機会であった。

実は今回の演奏会のチケット、かみさんが応募して当てたものである。最近のかみさんの強運さは神がかっている。また見事に当てたという訳。ついには我が社の今後の方向性も彼女のご神託に従う様になった。鉄人の無い頭であれこれ思案するより、かみさんの感の方が好結果を生む様な気がしているのだ。

広響が誕生して今年で50年になる。広島人は結構クラシック音楽のファンが多く、広響も安定した活動を続けている。小さなクラシックのコンサートは至る所で頻繁に行われている土地柄である。

今夜の演奏は3部門に別れていた。最初は室内音楽風、次にモーツァルトのヴァイオリン協奏曲、最後は金管楽器をフィーチャーした交響曲であった。クラシック音楽が好きとはいえ全然詳しくない鉄人。二番目に演奏したモーツァルトしか知らなかった。でもやっぱりモーツァルトは別格である。それだけでも来た甲斐があった。

かみさんもモーツァルトはやっぱりいいねと感動していた。素晴らしい演奏会であったが、個人的には何処かに遊びがあってもいいかなと。鉄人はクラシックも好きだが、ジャズがそれにも増して好きである。ジャズの生演奏は即興が命である。もう二度と同じ演奏は聴くことができない、一期一会の醍醐味がある。

今夜の演奏も一度きりには違いがない。でもプロならではの確かな演奏と聴き慣れている聴衆、そこには「あうんの呼吸」みたいなものがあって、お定まり感がちょっとした。

帰りにかみさんが気に入っているラーメン屋の「すずめ」に立ち寄る。何時ものラーメンを啜る。このお定まり感は悪くない。






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2014年02月20日

横尾忠則。

「暗夜行路 Y路」

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写真の本は、画家の横尾忠則の作品集である。アマゾンに注文していたものが今日届いた。

横尾忠則は、日本人なら一度はその作品を目にしたことがあると思われるほど著名な画家である。鉄人は彼の作風が以前から好きで、個展にも出かけたことがある。

上手く言えないが、彼の作品には自分が以前何処かで出会ったことがある、あるいは経験したことがある様な気持ちにさせる何かがある。

写真は、彼の作品の中でも有名な「Y路」シリーズの一部である。何の変哲もない何処にでも目にする様な街の中のY路を描いている。路は二手に分かれやがて暗闇の中に消えていく。暗闇の先には何があるのだろう。

人生は選択の連続である。幾らかの選択肢があっても路はひとつしか選べない。そしてその選んだ路も、その先がどうなるのかは誰も分からないのだ。

Y路というのは、そんな選択の人生を感じさせる場所の様な気がする。鉄人もY路の前に立ったことがある。さてどちらの路に行こうか。どちらかを選ぶ。そして今の自分がいるのだ。

絵画というものは三次元の世界を二次元で見せているので、「嘘」の世界だと言う人もいる。そうかもしれない。でも絵はその作者の心が具現化した世界でもあるのだ。横尾忠則と鉄人は同じ世界、あるいは近い世界を観ている。だから共感するのだ。

その画家の作品が好きだというのは、その画家の世界観と自分の世界観が近いことでもある。感性が近いというか。違いは才能である。絵の才能がない自分の代わりに横尾忠則が、その世界を描いてくれているのかもしれない。
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2014年02月19日

九州男児。

「小商い10」

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今日、アイフォンの芸能ニュースを何気なく読んでいたら、女子から見た「九州男児の扱い方とその特徴」という記事が目に止まった。

鉄人も九州男児、ちょっと興味がそそられたので、その内容を読んでみた。次の10項目が九州男児の特徴らしい。

1、気前が良い。
2、喧嘩を長引かせない。(先に謝る)
3、サプライズをしてくれる。(女性を喜ばそうとガンバル)
4、女子の扱い方が繊細。
5、男気にあふれる。
6、酒豪
7、ものごとをはっきり言う。
8、情に厚い。
9、決断力がある。
10、無口。

以上が女子から見た九州男児の特徴だそうだ。さて鉄人の九州男児度はいかに。

1、気前が良い。・・・・・・・・というより見栄っ張りである。
2、先に謝る。・・・・・・・・・基本女子とは喧嘩をしない。
3、サプライズをしてくれる。・・急に仕事を辞めて坊主になったりというサプ
                ライズはある。
4、女子の扱い方が繊細。・・・・というよりビビっている。
5、男気にあふれる。・・・・・・あふれてはいないが、あることはある。
6、酒豪。・・・・・・・・・・・だった。
7、ものごとをはっきり言う。・・へたれで語尾がうやむやになる。
8、情に厚い。・・・・・・・・・相手による。
9、決断力がある。・・・・・・・ケースバイケース。
10、無口。・・・・・・・・・・興に乗ればうるさいくらい。

あまり九州男児度は高くなさそうである。かみさんの主婦仲間の九州男児の亭主評は、ただ一言、「横暴」人気がないのだ。

それと九州男児の扱い方だが、例外なくほめ殺しだそうである。ただただ褒めちぎる。それで九州男児は木に登る。

鉄人、これはホントに当たっている・・・。


今日の一句。

花もなく ひとり母噛む 雛あられ はなもなく ひとりははかむ ひなあられ

                                  鉄人
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2014年02月18日

ペン字その後。

「積載オーバー?」

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ペン字の練習を続けている。事務所の鉄人のデスクはふたつあって正面がパソコン、右が作業用にしている。その右側の作業用の机に見本の本を立て、それとにらめっこしながら字の練習をしているのである。

パソコンでの画像修整の合間の字の練習は、意外に気分転換になることに気が付いた。字の練習というのは、書き方を頭で覚えるのではなく、反復することで手に覚えさせることであるから、ルーチンに近い。

見本の文字に近くなる様に、ただただ何度も繰り返すのみなのである。見本の文字はほれぼれするほど美しい。今、行書体の文章に挑戦しているのだが、一文字一文字のバランスが良く、全体も流れる様なリズム感がある。

鉄人の字はどうか。まず一文字一文字のバランスが悪い。たまに上手く書けたかと思うと、全体は斜めに傾いていたり、流れが堰止まっていたりしてリズムが悪い。

一文字一文字に注意が行き過ぎると全体が見えなくなる。全体のバランスを考えていると、一文字一文字が疎かになる。難しいのだ。

最近だが、ペン字でも線の強弱があることを知った。細いペンの線でも太いところと細いところがある。最初は無理だそんなの書けないと思っていたが、多少強弱が付けられる様になってきた。

ペンの勢いも大切な様だ。鉄人が勢いをつけて書くと、つい乱暴な線になってしまう。でも勢いがないと、線がヨレヨレしてだらしない印象になるのだ。これも難しい。

ペン字にも「止め」も「払い」もある。それも意識しなければならない。また続け文字を書く「連綿」という手法も行書にはある。ひらがなを蛇のようにクネクネと続けて書くやつだ。見本はホントにカッコいい。でも鉄人が書くとそうはいかない。ただのよれて曲がった線である。やはり難しい。

そして一番厄介なのは、書き直しが利かないという点である。一文字でも上手く書けていないと、他が良くてもすこぶる見栄えが悪い。文章であるからある程度文字も多い訳で、最後までノーミスで行くのは至難の業なのだ。

一文字一文字が美しく、全体の文字のバランスも良く、線は流れる様にリズム良く書くなんて、「そんなの無理だあ〜!!」っていうのが、鉄人の今の心境である。

でも確実に字が上手くなっている手応えも確かにあるのだ。これは仏道の修行と同じで、まだ山の一合目かもしれない。でも以前は麓だったのだ。登り続けていればいずれ二合目に到達する。始めから頂上には行けないのである。

ただ鉄人が考えていたよりペン字は高く険しい山であった。もし上手く書ける様になったらブログに載せてみたい。乞うご期待。何時のことになるやら。

推敲の推敲。

昨日。

閉店の 御礼哀し 冬の暮 

本日。

閉店の 謝状寂しき 年の暮 へいてんの しゃじょうさびしき としのくれ

                                 鉄人

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2014年02月17日

大雪。

「粉雪」

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デンマークの詩人ヘリエ・ローデの作品に次の様な一節がある。

「雪片は君の掌の上では涙の雫のよう。白い想念がなにもいわずにダンスする。世の中に雪ほど心を和らげるものはない」

何ともロマンチックな詩ではないか。鉄人にも柄にもなく雪を愛でるこころはある。確かに雪を美しいなと感じる感情が湧くのだ。

ところでこの数日間の東日本の大雪はどうだろう。とても雪を愛でながら感動しているどころではない。昨今よく観測史上初という言葉を耳にする。今まで経験したことがない様な気象が次々に現れているのだ。

温暖化が問題になっているが、他方で地球は既に氷河期に入っていると論ずる専門家も出てきている。どちらが当たっているのかは素人の鉄人には皆目分からないが、少なし以前とは明らかに異なる異常気象を経験しているのは間違いない。

この様な事を経験してきて感じることは、何と人間は無力なのかということだ。更にその人間の中のちっぽけな存在である自分はもっと無力である。物理的なことに於いては。

異常気象もそうだし、ある感染症が世界中に広がるパンデミックもありうる(一説によれば人類の滅亡の原因で一番可能性が高いのが、このパンデミックだそうだ)。

北朝鮮や中国などには好戦的な不穏な空気が流れているし、原発の事故も恐い。(福島の原発事故は、たまたまの偶然が重なって被害が今の状況で済んでいる。その偶然がなかったら、最悪東日本全域は人が住める環境ではなくなっていたという説がある。それが事実ならそのとき既に日本という国は滅びていたことになる)

この様に我々を取り巻く環境は、益々厳しさを増している様だ。仏陀は、「生きているということは奇跡です。」と、仰ったとか。

その通りだと思う。たまたま生きているのだ。言い換えれば何時死んでもおかしくない、ということになる。仏陀は「常に死を意識する様に、観察する様に」と説かれている。

死を身近に感じることで、今この瞬間の大切さや貴重さを知るのである。そしてそれに沿った生き方を実践するのだ。「死は時と場所を選ばない」という事実、肝に銘じて生きていきたいと思う。

推敲して一句。

閉店の 御礼哀し 冬の暮 へいてんの おんれいかなし ふゆのくれ

                              鉄人

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2014年02月16日

散歩道。

「小商い9」

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夕方、「外寒い?」と鉄人。「散歩?」とかみさん。「行く?」「行く。」ということでかみさんと散歩に出掛けた。

鉄人夫婦の散歩コースは、大きく分けて三つある。川沿いのコース。高台の団地コース。そして街コースである。今日は街コースを選んだ。

名付けて「コイン通りコース」という。コイン通りは五日市の中心部に位置する南北2キロに繋がる商店街である。北の入口に造幣局があるので、この名が付けられた様だ。

普通の商店街は大体500メートルくらいらしいので結構長い。往復4キロ。我家からその北の入口まで1、5キロあるので、合計7キロ、約一時間半の散歩であった。

コイン通りは交通量が多く、排気ガスが気になりあまり散歩をすることがない。今日は久しぶりである。街は変化が激しい。少し来ていない間に新しい店が出来ていたり、逆に閉店していたりしている。世の習いとはいえ無常なのだ。

コイン通りの南端まで来たら踵を返すのだが、排気ガスが嫌になった鉄人は通りに平行して走る裏道を選択した。裏道は車が離合出来ないほど狭い。でも歩くのには丁度良い。のんびり歩いていると新築の家が多いことに気が付く。景気が良いのかな?

小さな畑があったり、小粋な食堂を見つけたりと、歩く速さでないと気づけないものがある。途中で買った大好物のじゃこ天をふたりで頬張りながら家路に着いたのである。

一句。

閉店の 紙散らしけり 夕嵐 へいてんの かみちらしけり ふゆあらし

                               鉄人
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2014年02月15日

奚仲造車 無門関 八則

「小商い8」

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月庵和尚が、ある僧に尋ねた。「奚仲は百台もの車を造ったのだけれども、彼はその両輪を外し、車軸もとってしまった。彼は何を明らかにしようとしたのか。」

奚仲は、古代中国の夏王朝の人物で、車を発明したとされている。その彼がせっかく造った車をバラバラにしてしまった行為は、何を象徴しているのかと、月庵和尚は僧に尋ねたのである。

我々も普段車(現代なら自動車か)を見ている。道路を走っている鉄の塊は明らかに自動車だと認識している。ではその自動車を形成している部品をバラバラにしたらどうだろう。それはもう自動車とは呼べなくなる。

しかしその部品は増えもしていないし減りもしていない。自動車を形作っていたときと同じだけの数量である。自動車は何処に行ったのだ?

ではどのくらい組み立てれば自動車なのか。その線引きは何処で行う?そう考えると、我々が当たり前の様に見ている自動車という実体は無くなってくる。そして各々の部品もまた小さな部品の集合体である。

このことを我々の体に置き換えてみる。自分のだと思っているこの体も、様々な部品の集まりである。骨、皮、筋肉、血管、内蔵など様々な部品が合わさった集合体なのである。

そして車と同じ様に、その部品もまた小さな部品の集合体なのだ。おまけに何一つ自分の意思では造れない。自分の体という実体は何処にあるのか。その様なものは何処にもない。「無」である。ということを、この公案で月庵和尚は伝えたかったということである。

更に進めば、実体のないものに執着をしない様に。となってくる。この「奚仲造車」の公案は、「無我」を理解するのに比較的分かり易い喩えではないかと鉄人は思っている。





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2014年02月14日

冬眠。

「雪の宿」

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寒い!寒すぎる!!冬の寒さが苦手な鉄人は、完全な冬眠状態である。鉄人は高血圧なので、下手に動くと冬場は危険だ。で、動かない。

こんなに寒いのに、我家の室温は大変低い。居間の造りが良く言えば開放的、他の言い方をすればアッパッパーなので、暖房をつけても全然温まらない。居間で14度くらい。それでもかみさんはあまり寒くないと言う。まあ体脂肪率が違うからね。で、コタツから動かない。

その点事務所は快適である。自分の好みの温度に調節できるからだ。で、椅子から動かない。読書はベッドである。当然ながらベッドでも動かない。

家の中の決められた自分の居場所に、仕事以外の時間は、ただじっとしているのだ。鉄人に言わせれば完全な冬眠状態である。でも意外に楽しい。特に自分をインドア派だとは思っていなかったが、字の練習をしたり、俳句を捻ったり、本を読んだり、瞑想をしたりと、あまり体を動かさなくても、出来ることはたくさんある。その何れもが楽しいし面白い。

家人にも迷惑は掛けていない様なので、鉄人にとっては結構有意義な冬の暮らし方なのである。

前回の句を推敲してみた。

山里や 三百石の 蔵開き やまざとや さんびゃっこくの くらびらき

推敲。

山里は 三百石の 蔵開き やまざとは さんびゃっこくの くらびらき

                               鉄人


一句。

初雪や 番傘添えし 宿の庭 はつゆきや ばんがさそえし やどのにわ

                               鉄人

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2014年02月11日

じゃんけん大会。

「小商い6」

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先日、あるクライアント主催の飲み会があった。ほとんどはそのクライアントのメンバーだが、付き合いのある業者として鉄人と息子が誘われた。

和やかな雰囲気の中飲み会は進んで、最後のお楽しみとして「じゃんけん大会」があった。優勝者は今回の飲み会の代金が無料になるのだ。

とはいえ、相手は何時もお世話になっているクライアントである。ここで勝つのはマズい。まあ勝負弱い鉄人であるから、優勝することはないだろうけど万が一の場合もある。そこでまず負けると思われる作戦を立てたのである。

参加者は14名。優勝する確率は14分の1である。それだけでも勝負弱い鉄人には安心な範囲内であるが、もうひとつ決めたことがある。

「グー」しか出さないことにしたのである。どんなことがあってもグーしか出さない。これなら流石に必ず負けるであろうと踏んだのだ。

まず一回戦。7名ずつ2グループに別れてじゃんけんをする。当然鉄人はグー作戦である。「じゃんけんほい!!」。何と!!鉄人一発で勝ってしまったのである。他の全員がもちろんチョキを出したからだ。

隣のグループはなかなか決着が着かず、長々とじゃんけんをやっていたが、しばらくして決勝の相手が決まった。決勝戦である。先に2勝した方が優勝である。

勝つ訳にはいかない鉄人は、ここでもグー作戦に出た。1回目。「じゃんけんほい!!」。鉄人はグー、相手はパー鉄人の負けである。これで勝負があったと確信した。

2回目。「じゃんけんほい!!」鉄人はもちろんグー、ところが相手がチョキを出してきたのである。鉄人の勝利だ。さあ勝負の3回目。ここで鉄人迷う。負ける為にはそろそろ変えた方がいいかなと。度胸がないのだ。でもグーで最後まで行くと決意。「じゃんけんほい!!」。

あろうことか相手がチョキを続けて出したのである。これで勝負は決まった。変えれば良かった・・・。鉄人は不本意ながら勝ってしまったのだ。

決まりだから鉄人の参加費は無料になった。お金というのは使ってこそその価値があるものだ。何とも言えない気分でお店を後にしたのである。

「こんなときに限って勝つんだよなあ〜。」、息子に言われた一言が、グサリと胸に刺さった夜であった。


一句。

山里や 三百石の 蔵開き やまざとや さんびゃっこくの くらびらき

                               鉄人

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2014年02月10日

黒田官兵衛。

「小商い5」

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今年のNHKの大河ドラマは、「黒田官兵衛」である。鉄人、戦国武将の中で、最も好きな武将のひとりだ。

彼の戦国での存在はドラマに譲るとして、鉄人が興味があるのは、彼の人間性である。戦国時代の武将であるから、その人生が戦の連続であったのは仕方のないところであるが、彼はキリシタン大名であり、晩年、出家もしている。ただ戦をするだけの武将ではなかった様だ。

彼の別名「如水」は、出家後の名前と言われている。「如水」と号した理由は諸説あるのだが、「権力や武勲、手に入れた領地、それらのものはすべて水の如く消えていく、水泡に帰するものだ。」ということで名付けたらしい。彼はそれらのものが空しいものだと理解していたのである。

それと如水に興味がある理由がもうひとつある。どうも鉄人の先祖と繋がりがある様なのだ。鉄人の曾祖父の名前は、「小西クジュウロウマサモリ」という。豊臣秀吉の家臣のひとりであった小西行長の末裔だと子供の頃から聞きながら育った。

行長本人は、関ヶ原で破れ、京の五条ヶ原で斬首されたのだが、彼の弟の子供達が生き残ったとされている。小西行長は当時、肥後(熊本)の大名を加藤清正と共にやっていたので、肉親の生き残りが熊本の地で現在まで生き延びた様だ。鉄人の父方の先祖は熊本である。あながち根拠のない話しとは言えない。

小西行長は、秀吉から朝鮮出兵などの戦を数々命じられているが、時を同じくして、官兵衛も秀吉に参謀として仕えていた訳で、関与がなかったはずはない。

ちなみに行長もキリシタン大名であった。鉄人の先祖が同じキリシタン大名の官兵衛とどんなやりとりをしていただろうと思うと、ちょっと興味が湧く。

戦は嫌だが、家来や領民を大切にし、側室を置かず正室の光だけと一生を添い遂げた黒田官兵衛の人間性は、現代にも通じる立派な人となりだと思うのである。
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2014年02月08日

大雪。

「小商い4」

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今日は広島的には大雪。でも仕事は予定通り。行きで使う予定だった高速道路は閉鎖。仕方なく一般道路で。撮影内容は保育園の発表会。3時間半、脚立の上に立ちっ放し。ショット数3000ショット。帰りも高速は閉鎖中。渋滞の中トイレが無い。鉄人のガソリンはエンプティ。誰かのブログの文体に似ている?

でも園児って本当に癒される。また保母さんのあの母性。男には無理。


一句。

海に降る 雪に小舟が 消えてゆく うみにふる ゆきにこぶねが きえてゆく

瀬戸に降る 雪に霞みし 小舟かな せとにふる ゆきにかすみし こぶねかな

海に降る 雪わたしにも 降る雪ぞ うみにふる ゆきわたしにも ふるゆきぞ

                                  鉄人
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2014年02月06日

嘘。

「小商い3」

画像 162.jpg

ある著名な作曲家が嘘をついていた。ゴーストライターがいたのだ。作曲家本人が認めているので、真実の様だ。

ファンは失望し落胆するだろうし、あるいは人によっては怒りの声を上げるかもしれない。関係者も大変である。経営的損失も大きいだろうし、信用も失う。事後処理も大変だ。冬季オリンピックにまでその影響は飛び火している。たったひとりの人間がついた「嘘」の為に。

そして結局、一番損をするのは、嘘をついた作曲家本人なのである。信用も名誉も財産も全て失う。場合によっては罰を受けるかもしれないし、弁償の責任も発生する。更に明るい未来さえも失うのである。

仏陀は、出家していない一般人でもこれだけは守る様にと五つの戒めを説かれている。その中に「うそをついてはいけない。」、「不妄語戒」、という戒めがある。仏陀は、わずかでもうそをつくなと断言された。嘘は結局、最終的には自分を傷つけることになるからだ。

我々も日頃小さな嘘を繰り返しながら生きている。しかし何げなくその場しのぎでついた嘘が、後で取り返しがつかなくなる様なことは意外に多いものだ。

人は、嘘を自分がついていることは分かっているので、小さな嘘でも相手の為についた嘘でも、何処かに良心の呵責があり、嘘をつく度にこころにわずかでも傷をつけていると思うのだ。

そんな自分を自分自身が評価できない。自分自身が自分の価値を下げていくのである。それは苦しいことだと思う。

嘘を繰り返しながら虚勢を張る人生より、ささやかでも嘘の無い人生の方がよっぽど気楽である。その為には「小欲知足」。「欲を小さくして満足を知る」ことがポイントだと思う。特に欲がなければ嘘をつく必要性も無いからである。

作曲家は、その「小欲知足」ではなかったはずだ。自分の欲の為についた嘘が、結局は自分を破壊してしまったのである。仏陀の戒めを守らなくても別段罰はない。しかし残念ながら世間からきっちり罰を与えられる様である。

一句。

立春の 温みは刹那 雲間の陽 

りっしゅんの ぬくみはせつな くもまのひ

                  鉄人
   
                      

                                    

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2014年02月04日

褒める。

「小商い2」

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先程テレビを観ていたら、「歳を取っても記憶力を低下させない為にはどうすればいいのか。」みたいな趣旨の番組をやっていた。誰でも歳を取れば物忘れが多くなる。記憶力も弱くなる。仕方がないことだけれど、できるだけそれを少なくするまたは遅くするにはどのような方法があるのかを教えてくれていた。

幾つかの方法を伝授していたが、その中で「夫婦で褒め合うこと」が、記憶力の活性化の為には大切だと言っていた。「夫婦で褒め合う」というのは、相手を褒めることで、長い夫婦生活で停滞気味になっているふたりの会話の機会を増やすことが目的である。会話が増えると脳を使う。だから活性化していくという寸法である。

鉄人夫婦の場合は、相手が口から先に生まれてきたのではないかと思うくらいおしゃべりだから、バランスがとれているかどうかはともかくとして、会話が停滞していることはない。

それよりも鉄人が注目したのは、「相手を褒める」ことが、良好な夫婦関係にはとても大切なことだと再確認したことである。いくら会話が多くてもそれが口喧嘩じゃ当然楽しくはないはず、仲良く会話してこそ意味があると思うのだ。

鉄人は以前からこの「褒める」ということを意識してきた。お金は掛からないし効果が絶大だからだ。もういくらでも褒める。他人が聞いたらアホじゃないかと呆れるくらい褒める。かみさんの顔を見たら、「世界一かわいい。」って平気で言う。息子達には「俺の女は世界一いい女なんだから、他を探せ。」とも言う。「でも見つからないぜ。」と追い討ちをかける。

料理が出てきたら「世界一美味い。」と言う。そして「どうやったらこんな美味い料理が作れるのか。」とも訊く。「こんな美味い料理を食べれる俺は本当に幸せ者だ。」と畳み掛ける。

毎日の様にこれをやる。それに対してかみさんはどんな反応をしているのかというと、「そんなの当たり前だ。」という顔をしているのである。

これでいいと思うのだ。「かわいい」のも「美味い」のも、鉄人の主観に過ぎない。我家だけで通用する。というか鉄人夫婦だけに通用する評価なのである。でも、それでも「世界一」には変わりはないのだ。ここがミソだと自分では思っている。

もうひとつミソがある。お世辞じゃダメだということだ。主観でもいいから本気で褒める。本気は相手に伝わるのである。

毎日かみさんを褒めまくる鉄人であるが、かみさんは鉄人に対してどうか。これが「ツンデレ」なのである。たま〜に褒めてくれる。これの方が実は効果絶大の様だ。

たま〜にの褒め言葉で、普段褒められるのに慣れていない鉄人は舞い上がり、雀の涙ほどの少ない小遣いで毎日馬車馬の如く働いているのである。

かみさんには到底敵わない。

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2014年02月03日

引きこもり。

「小商い1」

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スタジオでの撮影が忙しくなると、鉄人、完全に引きこもり状態に陥る。今日も気づけば一度も外に出ていなかった。そしてそんな日は一日中ほとんど陽の光を浴びることが無い。

スタジオでの撮影はライトをセッティングして行うのが常である。その為、ライティングには邪魔な外から入る日光を完全に遮断してしまわなければならないのだ。

またパソコンを使っての画像修整の作業も、窓からの光はモニターを見る時の邪魔になるから、やはり黒色のカーテンを閉める。今日外を見たのは、昼食時二階の居間に上がった時のみである。

一日くらいならいいが、これが続くと段々元気をなくしてきている自分に気が付くのだ。こういうことがあった。以前事務所に大きなパキラの木があった。かなり大きな木で葉もたくさん付けていた。

ある時、その葉が大きくなってきているのに気が付いたのだ。鉄人は、毎日水をやり肥料もやっている自分の手入れのお陰だと喜んだ。ところがある日、枝が垂れ下がっているのを見たのである。

起こそうとしても垂れ下がったまま。葉も黄色くなってきていた。「何が起きたのだ?」。そして数日も経たないうちに、あっという間に枯れたのである。

原因は日光不足である。長い間カーテンを閉じたまま仕事をしていたので、光合成が出来なかった様だ。葉が大きくなったのは、わずかな光を得ようとした植物の命がけの行動だったのである。

それを知らない鉄人は、大きくなった葉を見て喜んでた訳である。申し訳ないことをしたものだ。葉が完全に落ち朽ち木となってしまったパキラの木をまだ捨てずにいる。自分の愚かな行為を繰り返さない為の教訓にである。

人間にもこれは当てはまるはずだ。人間にも陽の光は当然必要なものである。数日引きこもるだけでも元気がなくなる。たとえ外の光が入っている場合でも、外の空気は吸うべきだと思う。空気の鮮度が違う。空気でも水でも滞っているのはマズい。

名水と言われるペットボトルの水より、蛇口から流れ出ている水道水の方が圧倒的に身体に良いと言っている医者もいるくらいである。流れないものは淀むのである。淀むということはエネルギーが弱くなることでもある。引きこもりの人達が元気が無いのは案外そんなところにも原因があるのかもしれない。

ちょっと話しは逸れたが、明日はジョギングに出て、存分に日光を浴びるつもりである。五月が丘交差点折り返し往復12キロ。挑戦してみるかな。



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2014年02月02日

強運。

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今日は、かみさんとある出版記念パーティに出席していた。パーティといっても大袈裟なものではなく、関係者が集まり野菜料理のランチを楽しむというささやかなものであった。

そのパーティでは、食事の他にビンゴゲームが用意されていたのだが、そのビンゴゲームでの一コマである。ビンゴゲームであるから、当然賞品が用意されている。更にお楽しみとして商品券も用意されていたのだ。

賞品や商品券は紙袋に入っているので外から見ても分からない様になっている。だから最初にビンゴになっても、必ず欲しいものが手に入るとは限らないのだ。

こういう時のかみさんは、恐ろしいほどの集中力と無類の勝負強さを発揮する。今日の狙いは、今回の特賞に値する五千円の商品券だけであった。さてゲームが始まって三番目くらいの早さで彼女はビンゴになった。

そして賞品の入った袋が並んでいる場所までいくと、何の迷いもなくひとつの小さな袋を選んだのである。それから隣の席に戻り、袋を開けたら、ありきたりの粉石けんと共に、封筒が入っていた。

彼女の眼が光る。彼女は確信した様に封を切る。そして中から出てきたのは、何と!!一点勝負のあの五千円の商品券だったのである。かみさん狂喜。鉄人は唖然。真夏の夜の夢ならぬ真冬の昼の夢である。

しかしかみさんに言わせると、決して偶然ではない。目算があったと言う。まず小さめの袋を選ぶこと。地味目の袋を選ぶこと。そしてその袋を取ったときの主催者の反応を見ること。らしい。

その小さな紙袋に彼女が手を掛けたとき、主催者が「それでいいんですか?」と訊いたらしいのだが、そのときに相手のわずかな動揺を見て取ったという。その瞬間彼女は、「この袋には何かある」と確信したらしい。そして実際に特賞が当たったのだ。彼女が潜在的に持つ恐ろしいほどの集中力と無類の勝負感が、いかんなく発揮された訳である。

大分前であるが、これと同じ様なことがあった。盆踊りの大抽選会でのことである。特賞がテレビ、一等が自転車となかなか豪華であっあのだが、それらには眼もくれず彼女の狙いはただひとつ、米であった。そしてその狙い通り米が当たったのだ。得意満面な彼女に恐れ入ったものである。

さて今回のビンゴゲームの鉄人の成績はいかがであったか。次々にビンゴの声が上がる中、鉄人の番号はなかなかコールされず、最後から2番目くらいの遅さでビンゴになった。

しかし鉄人には狙いがあった。今日のかみさんの強運にあやかろうと、かみさんを賞品の袋が並べてあるところまで連れて行き、かみさんに袋を選んでもらうという作戦に出たのである。

この案には、我ながら頭が冴えてると自画自賛したのだが、ここで予定外のことが起こった。何とかみさんがトイレに行ってしまったのだ!!無類の勝負弱さの鉄人は、仕方なくかみさんの例に習い小さめの紙袋を選んだ。

そそくさと席に戻り袋を開封したら、そこには「ホッカイロ」一袋と小さな入浴剤が入っていたのである。それはそれで悪くはないのだが、かみさんとの差は歴然である。トイレから戻ってきたかみさんのちょっと意地悪な慰めにいささか憮然とはなった。

今回かみさんの恐るべき感の良さを見せつけられたのだが、悔し紛れに最後に一発言ってやったのである。

「旦那を選ぶ感だけは外したな。」


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