2013年12月22日

割れたカップ。

「マイカップ」

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写真の珈琲カップは、鉄人のお気に入りである。萩に撮影に行ったときいただいたものだが、大きさ、形、色、デザインすべてに満足、取っ手の握り具合も抜群で、家で珈琲を飲むときには常に愛用している。これ以外で珈琲を飲むとどうも飲んだ気になれない。そんな大のお気に入りのカップだが、仏陀は次の様に説かれている。

「その珈琲カップはすでに割れている。と見る様に」、と・・・。

カップには「割れる」という性質があるのである。今割れなくても何時かは割れるだろうし、自分が割らなくても誰かが割るかもしれない。地震などで割れることも考えられる。

確かなことは、幾ら大切にしている愛用の珈琲カップでも、時が経てばそれは必ず割れるのである。このことを理解する様にと仏陀は説かれたのである。

これは決して悲観的な見方ではなく、現実を観察すると出てくる真実の答えである。要するにすべては「常ならず」、「無常」であるということだ。

このことを観察することで、たとえ目の前で愛用の珈琲カップをうっかりかみさんが落として割ったとしても、それはそのカップの性質から起きた現象であり当たり前のことであると理解ができる。

当たり前のことが起きただけなら、こころは常に静かで落ち着いているはずである。この理解は自分の人生の中で起こる様々な出来事に対してもひとつの安全弁として作用することになるだろう。

「お気に入りの珈琲カップだから絶対に割れて欲しくない」という執着が「苦」を生むのである。いずれは割れるのだから、割れても仕方がないと思えるなら、こころが楽であることは確かな様だ。

「無常」への「理解」と「観察」は、常にこころを安らかにする為の不可欠な実践だと思うのである。
posted by masa at 23:20| Comment(0) | 日記