2013年09月18日

興味。

「中秋」

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今日撮影中クライアントと雑談をしていた。家の中でどんな格好をしているのかというまぁどうでもいい様な内容だったのだが、「黒のジャージの半パンを何時も履いてる。」と鉄人。

「それしか持ってないので、そればっかり履いてる。」「だよねえ〜。」

と、一緒にいたかみさんに同意を求めた。

「そう?私知らないわよ。興味無いしぃ〜。」と、かみさん。

知らない?興味無い?鉄人、その答えの冷淡さにいささか憮然としたのだが、よく考えてみると、昨日のかみさんの格好をまったく思い出せない自分がいる。興味がなかったからだ。

同じじゃん。と、得心。「興味」というものに「興味」を持ったので、「仏教」をベースに自分也に「興味」というものを考えてみた。

鉄人は昨日長い時間かみさんと一緒にいた。当然鉄人の眼はかみさんの服装を見ていることになる。しかし見ていたはずのその服装を思い出せない。そう興味がなかったからである。

「眼」という器官は、「見る」という機能がある。鉄人はその機能を確実に使っていた。眼をつぶっていなかったからだ。でも記憶にほとんどそれは存在していない。脳という器官の記憶するという機能を使っていなかったことになりはしないか。

何故記憶していないのか。そこに「興味」という記憶する為の「動機」モチベーションが発動しなかったことになる。眼で見たものが、興味がないことにより脳の中の記憶する機能をほとんど動かさなかったのだろう。鉄人、脳科学者ではないのでサイエンスとしてのロジックは分からないがそう思う。

仏教に「五蘊」というものがある。「蘊」とは「塊」のことで、「我」を分析すると「五つの塊」になると教える。その五つとは、「色受想行識」を指す。

この中の一番目、「色」は簡単に言えば「物質」の世界になる。例えば今回なら「服装」である。次に「受」、「物質」に対しての「感覚」。今回は「眼で見る」ことになる。それから「想」、「知識」だ。感覚で得たものに対して無意識的に知っていること。今回なら「服として知っている。」こと。「行」は「リアクション」である。「何かをしたい。」というこころの働きになる。最後は「識」、こころの「認識」する働きと言える。

今回は、「五蘊」の中の「行」と「識」の働きが弱かったのではないだろうか。「興味がない。」ということは、「我という現象が働いていない状態。」と言えるのではないか。記憶する対象に興味がないから「我」が素通りしたのだ。だから記憶する必要もない。文字通り「無我」であったのだ。多分。

ともあれ長い人生の中で、覚えていることなどほんのわずかである。それはその時に興味があったことは結構覚えているし、忘れていても思い出し易い。また翻って、興味がなかったことはまず思い出せないのではないか。

そうなると「興味」というものは、使い方次第では強力な味方になるのではないかと思う。元々興味あるものに興味を持つのは当たり前だが、興味がないものでも意識して興味を持つ様に試みれば、それは記憶に残り易くなるはずだ。

例えば名刺交換をする。相手に興味が湧かなければ、まず次に何処かで会ってもなかなか相手を思い出せないだろう。だが、意識して相手に興味を持つ様にすれば、相手の顔の特徴などを知ろうとするだろうし、次に何処かであっても、興味を持たなかったときより思い出し易いと考えられる。

鉄人に足りなかったのは多分それだ。相手も自分のことを覚えてくれていたら嬉しいに決まっている。今度からは意識して興味を持つ様にしてみたい。記憶力の低下も防げるに違いない。なら良いけど・・・。
posted by masa at 01:12| Comment(0) | 日記