「ひととき」
先週の土曜日のこと、かみさんとちょっとした諍いがあり不穏な空気に・・・。理由はともかく「怒り」が生まれたことに凹む鉄人。まだまだ修行不足だと痛感したのだが、しかしその不穏な空気を翌日に持ち込むことはしない。本当の後悔をしたくないからだ。
以前鉄人夫婦がよく買っていた珈琲豆の専門店があった。イケメンと美人の若いご夫婦が営まれていたのだが、数年前のある日、突然ご主人が亡くなった。心臓発作である。
さぞかし残された家族は落胆されているだろうと思った。それはその通りだったのだが、それ以上に「後悔」されていたのである。家族は亡くなられたご主人と奥様、そして高校生の一人娘。
当時、亡くなられたご主人と奥様や娘さんがあまり上手くいっていなかった様である。特に娘さんはお父さんとほとんど口も利かなかったみたいだ。
そんな時に突然の永遠の別れが来る。口を利かなかった娘さんの落胆は大きく、長い間後悔の念に苛まれていたと、後日奥様から聞いたことがある。
残念ながら娘さんの後悔は死ぬまで続くかもしれない。取り返しがつかないからだ。鉄人が「怒り」を翌日に持ち込まない様にしているのはその様な本当の後悔をしたくないからである。
人は何時別れが来るかも分からない。喧嘩をしたままの状態でその時が来たら、きっと残された者は後悔するだろう。少なくても鉄人はそうなる。そうならない為には「怒り」を続けないことだと思う。絶対に翌日には「怒り」を持ち込まない。そう決めている。
だからちょっとした諍いがあっても、その後普通に口は利く。流石に冗談までは言えないが・・・。そしてその内怒りの熱は自然に冷めていくのである。
勿論最初から「怒り」の感情が生まれない方が良いのは言うまでもない。でも現実はなかなかそうはいかない。1日をひとつのユニットとして考え、その日に起きた怒りはその日のうちに終わらせる。翌日はまた新しいユニットの中で生きていく。これは仏陀の教えでもある。「怒り」がまだまだ生まれてくる鉄人には、とても参考になる考え方なのである。
2013年09月30日
後悔せぬよう。
posted by masa at 23:36| Comment(0)
| 日記
2013年09月29日
スピノザ的生活。
「曼珠紗華」
バールーフ・デ・スピノザ。17世紀に活動したオランダの哲学者である。44歳で没しているので、鉄人より随分若い時にこの世を去っている。
「デカルトの哲学原理」だとか「形而上学的思想」とか「エチカ倫理学」などの高名な著書もあるが、鉄人にはさっぱり分からない。鉄人が興味を持ったのは、スピノザの普段の生活の様子である。
スピノザのその思想哲学は後世の哲学界に多大な影響を与えたほど有名だが、彼の類い希な清廉潔白な生き方も、よく知られるところである。
彼は裕福な家庭の生まれで、世に知られる様になってからも年金を提供されたりとお金には困らなかったはずだが、生涯清貧な生き方を通しているのだ。
彼はレンズ磨きという仕事で生計を支えていた。評判の腕の良さだった様だが、賃金としてはしれている。それを細かく計算して生活費に充てていた。
そして毎日レンズ磨きの仕事が終わった後に、哲学書の執筆に取りかかっていたという。その生活振りは毎日判で押した様に変わらなかったとか。
大学教授に招聘されたりもしているがすべて断っている。自分の思索の為の自由な時間が脅かされることを懸念したためである。そんな貧しいながらも清らかで自由な生活を送って44年という短い生涯を閉じている。
この生き方を良いなと鉄人は思うのだ。レンズ磨きはルーチンではない。彼は光学も探求していた様で、自らの理論を自分でレンズを磨いて完成させることにより立証していたらしい。
人生の後半は誰にも邪魔されず(日々の生活として)、知的好奇心を満足させ、哲学の道も究め(仏教とは異なる部分もあるが共通する部分も多い様だ)、清廉潔白な生き方を貫いた。見事な生涯ではないか。
哲学も仏教もそうだが、研究の対象は自分なのである。外にそれを求める必要はない。スピノザ的生活はとは、出家者はともかく一般人の我々にはひとつの理想的生活と言えるのかもしれない。
バールーフ・デ・スピノザ。17世紀に活動したオランダの哲学者である。44歳で没しているので、鉄人より随分若い時にこの世を去っている。
「デカルトの哲学原理」だとか「形而上学的思想」とか「エチカ倫理学」などの高名な著書もあるが、鉄人にはさっぱり分からない。鉄人が興味を持ったのは、スピノザの普段の生活の様子である。
スピノザのその思想哲学は後世の哲学界に多大な影響を与えたほど有名だが、彼の類い希な清廉潔白な生き方も、よく知られるところである。
彼は裕福な家庭の生まれで、世に知られる様になってからも年金を提供されたりとお金には困らなかったはずだが、生涯清貧な生き方を通しているのだ。
彼はレンズ磨きという仕事で生計を支えていた。評判の腕の良さだった様だが、賃金としてはしれている。それを細かく計算して生活費に充てていた。
そして毎日レンズ磨きの仕事が終わった後に、哲学書の執筆に取りかかっていたという。その生活振りは毎日判で押した様に変わらなかったとか。
大学教授に招聘されたりもしているがすべて断っている。自分の思索の為の自由な時間が脅かされることを懸念したためである。そんな貧しいながらも清らかで自由な生活を送って44年という短い生涯を閉じている。
この生き方を良いなと鉄人は思うのだ。レンズ磨きはルーチンではない。彼は光学も探求していた様で、自らの理論を自分でレンズを磨いて完成させることにより立証していたらしい。
人生の後半は誰にも邪魔されず(日々の生活として)、知的好奇心を満足させ、哲学の道も究め(仏教とは異なる部分もあるが共通する部分も多い様だ)、清廉潔白な生き方を貫いた。見事な生涯ではないか。
哲学も仏教もそうだが、研究の対象は自分なのである。外にそれを求める必要はない。スピノザ的生活はとは、出家者はともかく一般人の我々にはひとつの理想的生活と言えるのかもしれない。
posted by masa at 22:16| Comment(0)
| 日記
2013年09月25日
割れ鐘の如く。
「仏陀座像」
明治維新の立役者西郷隆盛の人物評を、恩師勝海舟に坂本龍馬が語ったことがある。「なるほど西郷という奴は分からぬ奴だ。小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く・・・、私の手には負えない。」というのが坂本龍馬が西郷に対して感じていた人物評だったのである。
西郷隆盛はどんな些細なことにも真面目に対応し、どんな重大な事柄にも立派にアジャストしたそうである。その懐の深さに龍馬は感銘を受けた様である。そしてその大きな釣り鐘に大きな音を出させることが出来なかった龍馬自身を、小さな鐘木と喩えてもいた様だ。
アーチャン・チャー・バンテーによれば、仏教に於いての最上の釣り鐘は、幾ら強く叩いても何にも響かない割れた釣り鐘、割れ鐘の様な人物を最高位に置いている。
detachmentという英単語がある。「分離」とか「孤立」という意味合いになるのだが、その中に「世俗や利害などに超然としていること」という意味も出てくる。ちょっと語弊を招きそうな言葉に換えれば「無関心」になる。
社会的成功や名誉、財産、などに微塵も関心がない。世俗の欲という鐘木で幾ら叩いても何も響かないのである。響かないから常にこころは平静で落ちついている。そんな人物像を仏教では理想としているのだ。
西郷という人物は社会的な名声などには無関心であった様だ。彼は立派な割れ鐘でもあったことになる。鉄人はどうか。小さく叩かれれば聴こえず、大きく叩かれれば逃げ出す。そんな人物の様である。
明治維新の立役者西郷隆盛の人物評を、恩師勝海舟に坂本龍馬が語ったことがある。「なるほど西郷という奴は分からぬ奴だ。小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く・・・、私の手には負えない。」というのが坂本龍馬が西郷に対して感じていた人物評だったのである。
西郷隆盛はどんな些細なことにも真面目に対応し、どんな重大な事柄にも立派にアジャストしたそうである。その懐の深さに龍馬は感銘を受けた様である。そしてその大きな釣り鐘に大きな音を出させることが出来なかった龍馬自身を、小さな鐘木と喩えてもいた様だ。
アーチャン・チャー・バンテーによれば、仏教に於いての最上の釣り鐘は、幾ら強く叩いても何にも響かない割れた釣り鐘、割れ鐘の様な人物を最高位に置いている。
detachmentという英単語がある。「分離」とか「孤立」という意味合いになるのだが、その中に「世俗や利害などに超然としていること」という意味も出てくる。ちょっと語弊を招きそうな言葉に換えれば「無関心」になる。
社会的成功や名誉、財産、などに微塵も関心がない。世俗の欲という鐘木で幾ら叩いても何も響かないのである。響かないから常にこころは平静で落ちついている。そんな人物像を仏教では理想としているのだ。
西郷という人物は社会的な名声などには無関心であった様だ。彼は立派な割れ鐘でもあったことになる。鉄人はどうか。小さく叩かれれば聴こえず、大きく叩かれれば逃げ出す。そんな人物の様である。
posted by masa at 22:41| Comment(0)
| 日記
2013年09月23日
ハードワークと幸福感。
「無我」
少し前鉄人はある撮影の仕事を頼まれた。去年同じ内容の仕事を頼まれて撮影をしている。その仕事が実にハードだったのだ。
もう二度とその仕事は受けないと決めていたのだが、どういう訳か今年も結局受けてしまったのである。
その仕事とは「保育園の運動会」の撮影である。朝九時からお昼までの3時間ほどの撮影なのだがこれがとびきりキツい。雪崩の如く矢継ぎ早にプログラムが進行する。3時間ひとときも休めず緊張のしっぱなし、また園内は狭く園児に怪我をさせてはいけないのでそれにも注意を払わなくてはならない。
一番辛いのは撮影をする時の姿勢である。子供達は身長が低い、その為園児の背の高さに合わせて低いアングルで撮影しなければならない。これがキツいのだ。スクワットを3時間ぶっつけでやっている感覚だ。若いヤツならともかく、一般の会社なら定年近い鉄人にはこれは酷である。
他の撮影条件も厳しい。天気が良いとものすごく撮り難い保育園だったのだ。園児を太陽のキツい光から守る様に天幕が張ってある。園児には良いのだが、カメラマンには甚だ辛い条件になる。それは明るいところと暗いところの明るさの差がひどくつくからである。明るいところに露出を合わせると暗い場所は真っ暗。暗いところに合わせると明るい場所は真っ白。
かけっこなどその明るいところと暗いところを走る。フラッシュなんて連続では使えない。どしたら良かんべ?
撮影が終了した時には精も根も尽き果てノックアウト状態になった。その後三日間足の痛みが引かず他の撮影に差し支えたのだ。
ところが今年も昨日その撮影をしたのである。何故か?それは園児達があまりにも可愛かったからである。彼らはもう孫にも近い年齢である。その彼らがたどたどしいながらも懸命に演技をしたり競争をしたりしている。これが鉄人にはたまらなかった。
ヘロヘロになりながらも鉄人のこころは癒されていたのである。もう一度あの子達を撮ってみたい。それだけの思いで今年もハードワークに挑んだのだ。結果当然の如く今回もヘロヘロに。夢中で撮っていて気づかなかったが、何と去年の倍近くの数を撮っていた。カメラマンの「性」はどうにもならんなと思った次第である。
ところが今年はこれで終わらない。後、2件ある。体が保つかどうか、やっぱり断ればよかったかな?トホホ・・・。
少し前鉄人はある撮影の仕事を頼まれた。去年同じ内容の仕事を頼まれて撮影をしている。その仕事が実にハードだったのだ。
もう二度とその仕事は受けないと決めていたのだが、どういう訳か今年も結局受けてしまったのである。
その仕事とは「保育園の運動会」の撮影である。朝九時からお昼までの3時間ほどの撮影なのだがこれがとびきりキツい。雪崩の如く矢継ぎ早にプログラムが進行する。3時間ひとときも休めず緊張のしっぱなし、また園内は狭く園児に怪我をさせてはいけないのでそれにも注意を払わなくてはならない。
一番辛いのは撮影をする時の姿勢である。子供達は身長が低い、その為園児の背の高さに合わせて低いアングルで撮影しなければならない。これがキツいのだ。スクワットを3時間ぶっつけでやっている感覚だ。若いヤツならともかく、一般の会社なら定年近い鉄人にはこれは酷である。
他の撮影条件も厳しい。天気が良いとものすごく撮り難い保育園だったのだ。園児を太陽のキツい光から守る様に天幕が張ってある。園児には良いのだが、カメラマンには甚だ辛い条件になる。それは明るいところと暗いところの明るさの差がひどくつくからである。明るいところに露出を合わせると暗い場所は真っ暗。暗いところに合わせると明るい場所は真っ白。
かけっこなどその明るいところと暗いところを走る。フラッシュなんて連続では使えない。どしたら良かんべ?
撮影が終了した時には精も根も尽き果てノックアウト状態になった。その後三日間足の痛みが引かず他の撮影に差し支えたのだ。
ところが今年も昨日その撮影をしたのである。何故か?それは園児達があまりにも可愛かったからである。彼らはもう孫にも近い年齢である。その彼らがたどたどしいながらも懸命に演技をしたり競争をしたりしている。これが鉄人にはたまらなかった。
ヘロヘロになりながらも鉄人のこころは癒されていたのである。もう一度あの子達を撮ってみたい。それだけの思いで今年もハードワークに挑んだのだ。結果当然の如く今回もヘロヘロに。夢中で撮っていて気づかなかったが、何と去年の倍近くの数を撮っていた。カメラマンの「性」はどうにもならんなと思った次第である。
ところが今年はこれで終わらない。後、2件ある。体が保つかどうか、やっぱり断ればよかったかな?トホホ・・・。
posted by masa at 17:38| Comment(2)
| 日記
2013年09月21日
仕事の選択。
「散水」
鉄人の今の仕事は広告カメラマンである。別段それに子どもの頃から憧れていてなった訳ではない。いわばなし崩し的にカメラマンになったのだ。
最初グラフィックデザインの勉強をしていたのだが、ある日「机の前にじっとできない」自分に気づく。学歴が高い訳でもなく、何か資格や特技があるわけでもない、ついでに金もなかった鉄人は、飯の保証がある住み込みの貸しスタジオに何となく飛び込んだのである。
その時はカメラなんてほとんど触ったこともなく、興味も特になかった。貸しスタジオには芸能人や有名なカメラマン、モデルが多数出入りしているから面白そうだと思っただけ、いい加減な動機でカメラマンの門を潜ったのだ。
それが紆余曲折を経ながら30年以上過ぎた今でも何となくまだ写真を撮っているのである。
経営コンサルタントの神田昌典氏の著書の中に、タイトルは忘れたが「仕事の選び方」を扱っているものがある。これを読んで、自分の人生を振り返りながら非常に同感したことがある。
自分に合った仕事を選ぶにはどうしたらいいか。神田氏の言葉、「やりたい仕事を探すのではなく、やりたくない仕事、やりたくても出来ない仕事を捨てていきなさい。」
自分がやりたい仕事を探すというのは意外に難しい。鉄人もそうだった。しかしやりたくない仕事、やりたくても出来ない仕事を、自分の仕事の候補から除外していくのは誰でも出来ることなのである。
鉄人の場合なら、背広でする仕事は嫌だった。そこでホワイトカラーの仕事は選択肢から除外される。弁護士や医者、会計士も頭もなく資格もないので無理。飯が喰える程運動神経がある訳ではないのでアスリートにはなれない。人前に出るのは苦手なので芸能人も駄目。知識はないし土地もないので農業も無理そう。
などなど、様々な自分にとって嫌な仕事出来ない仕事を選択肢の中から除外していけば、これなら自分もそんなに嫌でなく出来そうだなあという仕事が絞られてくるという訳だ。それとその除外する職業を紙面に箇条書きで書くのがコツだそうだ。頭の中でぐるぐる回転させては整理出来ないからだそうである。
鉄人が若い頃、面白そうだなあと何となく貸しスタジオに入ったのも、あながち間違った選択ではなかった様である。様々な仕事がありそれをこなす人がいてこの世の中は回っている。その人に合った仕事は必ずあるはずである。
本当はやりたくないけど今の仕事をしている人間も数多くいると思われる。人生の中で、仕事に関わっている時間は非常に長い。「仕事の選び方」というのは、自分の人生を精神的に豊かにする上でもとても重要なことではないかと鉄人は思うのだ。
鉄人の今の仕事は広告カメラマンである。別段それに子どもの頃から憧れていてなった訳ではない。いわばなし崩し的にカメラマンになったのだ。
最初グラフィックデザインの勉強をしていたのだが、ある日「机の前にじっとできない」自分に気づく。学歴が高い訳でもなく、何か資格や特技があるわけでもない、ついでに金もなかった鉄人は、飯の保証がある住み込みの貸しスタジオに何となく飛び込んだのである。
その時はカメラなんてほとんど触ったこともなく、興味も特になかった。貸しスタジオには芸能人や有名なカメラマン、モデルが多数出入りしているから面白そうだと思っただけ、いい加減な動機でカメラマンの門を潜ったのだ。
それが紆余曲折を経ながら30年以上過ぎた今でも何となくまだ写真を撮っているのである。
経営コンサルタントの神田昌典氏の著書の中に、タイトルは忘れたが「仕事の選び方」を扱っているものがある。これを読んで、自分の人生を振り返りながら非常に同感したことがある。
自分に合った仕事を選ぶにはどうしたらいいか。神田氏の言葉、「やりたい仕事を探すのではなく、やりたくない仕事、やりたくても出来ない仕事を捨てていきなさい。」
自分がやりたい仕事を探すというのは意外に難しい。鉄人もそうだった。しかしやりたくない仕事、やりたくても出来ない仕事を、自分の仕事の候補から除外していくのは誰でも出来ることなのである。
鉄人の場合なら、背広でする仕事は嫌だった。そこでホワイトカラーの仕事は選択肢から除外される。弁護士や医者、会計士も頭もなく資格もないので無理。飯が喰える程運動神経がある訳ではないのでアスリートにはなれない。人前に出るのは苦手なので芸能人も駄目。知識はないし土地もないので農業も無理そう。
などなど、様々な自分にとって嫌な仕事出来ない仕事を選択肢の中から除外していけば、これなら自分もそんなに嫌でなく出来そうだなあという仕事が絞られてくるという訳だ。それとその除外する職業を紙面に箇条書きで書くのがコツだそうだ。頭の中でぐるぐる回転させては整理出来ないからだそうである。
鉄人が若い頃、面白そうだなあと何となく貸しスタジオに入ったのも、あながち間違った選択ではなかった様である。様々な仕事がありそれをこなす人がいてこの世の中は回っている。その人に合った仕事は必ずあるはずである。
本当はやりたくないけど今の仕事をしている人間も数多くいると思われる。人生の中で、仕事に関わっている時間は非常に長い。「仕事の選び方」というのは、自分の人生を精神的に豊かにする上でもとても重要なことではないかと鉄人は思うのだ。
posted by masa at 10:49| Comment(2)
| 日記
2013年09月18日
興味。
「中秋」
今日撮影中クライアントと雑談をしていた。家の中でどんな格好をしているのかというまぁどうでもいい様な内容だったのだが、「黒のジャージの半パンを何時も履いてる。」と鉄人。
「それしか持ってないので、そればっかり履いてる。」「だよねえ〜。」
と、一緒にいたかみさんに同意を求めた。
「そう?私知らないわよ。興味無いしぃ〜。」と、かみさん。
知らない?興味無い?鉄人、その答えの冷淡さにいささか憮然としたのだが、よく考えてみると、昨日のかみさんの格好をまったく思い出せない自分がいる。興味がなかったからだ。
同じじゃん。と、得心。「興味」というものに「興味」を持ったので、「仏教」をベースに自分也に「興味」というものを考えてみた。
鉄人は昨日長い時間かみさんと一緒にいた。当然鉄人の眼はかみさんの服装を見ていることになる。しかし見ていたはずのその服装を思い出せない。そう興味がなかったからである。
「眼」という器官は、「見る」という機能がある。鉄人はその機能を確実に使っていた。眼をつぶっていなかったからだ。でも記憶にほとんどそれは存在していない。脳という器官の記憶するという機能を使っていなかったことになりはしないか。
何故記憶していないのか。そこに「興味」という記憶する為の「動機」モチベーションが発動しなかったことになる。眼で見たものが、興味がないことにより脳の中の記憶する機能をほとんど動かさなかったのだろう。鉄人、脳科学者ではないのでサイエンスとしてのロジックは分からないがそう思う。
仏教に「五蘊」というものがある。「蘊」とは「塊」のことで、「我」を分析すると「五つの塊」になると教える。その五つとは、「色受想行識」を指す。
この中の一番目、「色」は簡単に言えば「物質」の世界になる。例えば今回なら「服装」である。次に「受」、「物質」に対しての「感覚」。今回は「眼で見る」ことになる。それから「想」、「知識」だ。感覚で得たものに対して無意識的に知っていること。今回なら「服として知っている。」こと。「行」は「リアクション」である。「何かをしたい。」というこころの働きになる。最後は「識」、こころの「認識」する働きと言える。
今回は、「五蘊」の中の「行」と「識」の働きが弱かったのではないだろうか。「興味がない。」ということは、「我という現象が働いていない状態。」と言えるのではないか。記憶する対象に興味がないから「我」が素通りしたのだ。だから記憶する必要もない。文字通り「無我」であったのだ。多分。
ともあれ長い人生の中で、覚えていることなどほんのわずかである。それはその時に興味があったことは結構覚えているし、忘れていても思い出し易い。また翻って、興味がなかったことはまず思い出せないのではないか。
そうなると「興味」というものは、使い方次第では強力な味方になるのではないかと思う。元々興味あるものに興味を持つのは当たり前だが、興味がないものでも意識して興味を持つ様に試みれば、それは記憶に残り易くなるはずだ。
例えば名刺交換をする。相手に興味が湧かなければ、まず次に何処かで会ってもなかなか相手を思い出せないだろう。だが、意識して相手に興味を持つ様にすれば、相手の顔の特徴などを知ろうとするだろうし、次に何処かであっても、興味を持たなかったときより思い出し易いと考えられる。
鉄人に足りなかったのは多分それだ。相手も自分のことを覚えてくれていたら嬉しいに決まっている。今度からは意識して興味を持つ様にしてみたい。記憶力の低下も防げるに違いない。なら良いけど・・・。
今日撮影中クライアントと雑談をしていた。家の中でどんな格好をしているのかというまぁどうでもいい様な内容だったのだが、「黒のジャージの半パンを何時も履いてる。」と鉄人。
「それしか持ってないので、そればっかり履いてる。」「だよねえ〜。」
と、一緒にいたかみさんに同意を求めた。
「そう?私知らないわよ。興味無いしぃ〜。」と、かみさん。
知らない?興味無い?鉄人、その答えの冷淡さにいささか憮然としたのだが、よく考えてみると、昨日のかみさんの格好をまったく思い出せない自分がいる。興味がなかったからだ。
同じじゃん。と、得心。「興味」というものに「興味」を持ったので、「仏教」をベースに自分也に「興味」というものを考えてみた。
鉄人は昨日長い時間かみさんと一緒にいた。当然鉄人の眼はかみさんの服装を見ていることになる。しかし見ていたはずのその服装を思い出せない。そう興味がなかったからである。
「眼」という器官は、「見る」という機能がある。鉄人はその機能を確実に使っていた。眼をつぶっていなかったからだ。でも記憶にほとんどそれは存在していない。脳という器官の記憶するという機能を使っていなかったことになりはしないか。
何故記憶していないのか。そこに「興味」という記憶する為の「動機」モチベーションが発動しなかったことになる。眼で見たものが、興味がないことにより脳の中の記憶する機能をほとんど動かさなかったのだろう。鉄人、脳科学者ではないのでサイエンスとしてのロジックは分からないがそう思う。
仏教に「五蘊」というものがある。「蘊」とは「塊」のことで、「我」を分析すると「五つの塊」になると教える。その五つとは、「色受想行識」を指す。
この中の一番目、「色」は簡単に言えば「物質」の世界になる。例えば今回なら「服装」である。次に「受」、「物質」に対しての「感覚」。今回は「眼で見る」ことになる。それから「想」、「知識」だ。感覚で得たものに対して無意識的に知っていること。今回なら「服として知っている。」こと。「行」は「リアクション」である。「何かをしたい。」というこころの働きになる。最後は「識」、こころの「認識」する働きと言える。
今回は、「五蘊」の中の「行」と「識」の働きが弱かったのではないだろうか。「興味がない。」ということは、「我という現象が働いていない状態。」と言えるのではないか。記憶する対象に興味がないから「我」が素通りしたのだ。だから記憶する必要もない。文字通り「無我」であったのだ。多分。
ともあれ長い人生の中で、覚えていることなどほんのわずかである。それはその時に興味があったことは結構覚えているし、忘れていても思い出し易い。また翻って、興味がなかったことはまず思い出せないのではないか。
そうなると「興味」というものは、使い方次第では強力な味方になるのではないかと思う。元々興味あるものに興味を持つのは当たり前だが、興味がないものでも意識して興味を持つ様に試みれば、それは記憶に残り易くなるはずだ。
例えば名刺交換をする。相手に興味が湧かなければ、まず次に何処かで会ってもなかなか相手を思い出せないだろう。だが、意識して相手に興味を持つ様にすれば、相手の顔の特徴などを知ろうとするだろうし、次に何処かであっても、興味を持たなかったときより思い出し易いと考えられる。
鉄人に足りなかったのは多分それだ。相手も自分のことを覚えてくれていたら嬉しいに決まっている。今度からは意識して興味を持つ様にしてみたい。記憶力の低下も防げるに違いない。なら良いけど・・・。
posted by masa at 01:12| Comment(0)
| 日記
2013年09月16日
コンタクト。
「ホームシアター」
最近ホームシアターにハマっている。先日、映画「2012」のDVDをアマゾンで買って鑑賞したらこれが結構面白い。それに味をしめて、「ディ・アフター・トゥモロー」、「2001年 宇宙の旅」、「レッド・クリフ」と立て続けに観ている。「2012」は連日の様に観ているのだがこれには少々訳がある。
映画も面白いのだが、英語の勉強になるのだ。アメリカのコメディが英語の勉強には良いと聞いて、いろいろ購入して観ていたのだが、どうも面白くない。安っぽいアメリカンジョークに付いていけないというか。
その点好みの映画なら観てみようかという気にもなる。鉄人はSFものや特撮ものが好きなので、その様な映画を観るのである。今回、購入した映画は「コンタクト」547円也、とってもリーズナブルである。アマゾンの評価が高かったので買ってみた。
原作は彼のカール・セーガン。鉄人も彼の本は持っているので期待した。SFもので、地球外生物と「コンタクト」し、特殊な装置で彼らの星に行き生還するというもの。主役はジョディ・フォスター。
真面目な映画で、「何故、我々はここにいるのか。我々はいったい何者なのか。」という誰もが一度は自分に問いかけるテーマをこの映画は取り上げている。
それで遠い宇宙の生命体とコンタクトし、自分達がひとりではないことを知るのだが、仏教的答えはこの映画の導きだしたものとは異なる。
「何故、我々はここにいるのか。」 仏教の答え「我々は何処にもいない。」、「我々はいったい何者なのか。」仏教の答え「何者でもない。我々そのものが存在しない。」要するに無我であるということだ。
遥か遠くの宇宙にその答えを探しに出かけても、宇宙はもっと遥かに広い。その先のことはどうなるのだ。真理を外に求めてはいけない、それは無駄なことであるというのが仏陀の教えになる。
答えは、真理はすべて己の中にある。答えを探しにいくなら内なる宇宙、自分を旅しなければならない。「我々はいったい何者か。」己を観察していけば、自我を見つけることが出来ない。我がいなければ何者もへったくれもなくなる。最終的には我々は何処にもいないのだ。と、鉄人は解釈している。
大宇宙に満遍なく存在すると思われる生命体の特徴は須く皆同じである。出生し歳を取り壊れ死ぬ。宇宙の果てまで行ってもそれは同じである。そのことは自分を観察することにより確信出来る。そしてその事実を変えることは誰にも出来ない。体があっての思考である。その体なくして思考は出来ない。しかしその思考で体をコントロールできないのなら、我という実体としての存在はありえなくなる。すなわち、我々は何者でもなく何処にもいない。というのが答えになってくる。
大宇宙に憧れはある。しかし自分も大宇宙も実体としては存在しないという真理は変えられないと鉄人は思うのである。
最近ホームシアターにハマっている。先日、映画「2012」のDVDをアマゾンで買って鑑賞したらこれが結構面白い。それに味をしめて、「ディ・アフター・トゥモロー」、「2001年 宇宙の旅」、「レッド・クリフ」と立て続けに観ている。「2012」は連日の様に観ているのだがこれには少々訳がある。
映画も面白いのだが、英語の勉強になるのだ。アメリカのコメディが英語の勉強には良いと聞いて、いろいろ購入して観ていたのだが、どうも面白くない。安っぽいアメリカンジョークに付いていけないというか。
その点好みの映画なら観てみようかという気にもなる。鉄人はSFものや特撮ものが好きなので、その様な映画を観るのである。今回、購入した映画は「コンタクト」547円也、とってもリーズナブルである。アマゾンの評価が高かったので買ってみた。
原作は彼のカール・セーガン。鉄人も彼の本は持っているので期待した。SFもので、地球外生物と「コンタクト」し、特殊な装置で彼らの星に行き生還するというもの。主役はジョディ・フォスター。
真面目な映画で、「何故、我々はここにいるのか。我々はいったい何者なのか。」という誰もが一度は自分に問いかけるテーマをこの映画は取り上げている。
それで遠い宇宙の生命体とコンタクトし、自分達がひとりではないことを知るのだが、仏教的答えはこの映画の導きだしたものとは異なる。
「何故、我々はここにいるのか。」 仏教の答え「我々は何処にもいない。」、「我々はいったい何者なのか。」仏教の答え「何者でもない。我々そのものが存在しない。」要するに無我であるということだ。
遥か遠くの宇宙にその答えを探しに出かけても、宇宙はもっと遥かに広い。その先のことはどうなるのだ。真理を外に求めてはいけない、それは無駄なことであるというのが仏陀の教えになる。
答えは、真理はすべて己の中にある。答えを探しにいくなら内なる宇宙、自分を旅しなければならない。「我々はいったい何者か。」己を観察していけば、自我を見つけることが出来ない。我がいなければ何者もへったくれもなくなる。最終的には我々は何処にもいないのだ。と、鉄人は解釈している。
大宇宙に満遍なく存在すると思われる生命体の特徴は須く皆同じである。出生し歳を取り壊れ死ぬ。宇宙の果てまで行ってもそれは同じである。そのことは自分を観察することにより確信出来る。そしてその事実を変えることは誰にも出来ない。体があっての思考である。その体なくして思考は出来ない。しかしその思考で体をコントロールできないのなら、我という実体としての存在はありえなくなる。すなわち、我々は何者でもなく何処にもいない。というのが答えになってくる。
大宇宙に憧れはある。しかし自分も大宇宙も実体としては存在しないという真理は変えられないと鉄人は思うのである。
posted by masa at 22:40| Comment(0)
| 日記
焼き鳥。
「秋桜」
台風が来ている。関東地方直撃の様で広範囲で大雨になりそうである。たまたま長男が友人の結婚式で石川県にいる。よりによってとは思うがこれも思い出にはなるな。台風の進路に住んでいる人はご注意を。
今日(すでに昨日)は三連休の中日である。子供達はいない。休日に鉄人の為にだけ夕食の支度をするのが面倒臭いのか、かみさんからある提案があった。「焼き鳥屋」に行こうと言い出したのだ。
鉄人も焼き鳥には眼がない方なので二つ返事で賛成、すぐに出かけた。焼き鳥屋は家から歩いて10分くらいのところにある。店を開けたばかりの時間帯なのでまだがら空きと思っていたら、席が半分近く埋まっていた。皆鉄人夫婦の様な考えだったのかな?
ふたりは定位置に座る。そこの大将は以前はお硬い仕事をしていた様だが、今は完全に好々爺になっていて何時もの様に穏やかな笑顔で迎えてくれた。ところが普段と着ているものが違うのだ。真っ赤なシャツを着ていたのだ。背中に37と書いてある。カープのユニフォームなのである。
今日はマツダスタジアムで昼間巨人戦があった。それに家族で応援に行っていたそうだ。今日はマエケンが投げて10対0の完勝、クライマックスシリーズの出場も掛かっているので、俄然広島の街は盛り上がっている。そんな訳で大将も気分が悪かろうはずもない、何時にも増してヘラヘラしていた。(ちなみに背番号37は松山らしい。)
その店はチェーン店なのだが、大将の人柄がそうさせるのか良い意味でチェーン店臭さを感じさせない。まず清潔感がある。近頃バイトテロという卑劣な事件がニュースになっているが、そんな気配を微塵も感じさせない。仕事が実に丁寧である。チェーン店なので定番もあるが、オリジナルのメニューも数多い。それがどれも美味い。注文したのをたまに忘れるのはご愛嬌だが居心地が良い店なのである。
何時もの様に我々が店にいる時間は短い。客も増えて来たので早々に出た。安い店なので客の回転が勝負である、鉄人も商売をしているからそこら辺は心得ているつもりだ。
7月の末に計画していた焼き鳥デートがやっと実現した。デート代はかみさんが出した。俺はヒモかい?
台風が来ている。関東地方直撃の様で広範囲で大雨になりそうである。たまたま長男が友人の結婚式で石川県にいる。よりによってとは思うがこれも思い出にはなるな。台風の進路に住んでいる人はご注意を。
今日(すでに昨日)は三連休の中日である。子供達はいない。休日に鉄人の為にだけ夕食の支度をするのが面倒臭いのか、かみさんからある提案があった。「焼き鳥屋」に行こうと言い出したのだ。
鉄人も焼き鳥には眼がない方なので二つ返事で賛成、すぐに出かけた。焼き鳥屋は家から歩いて10分くらいのところにある。店を開けたばかりの時間帯なのでまだがら空きと思っていたら、席が半分近く埋まっていた。皆鉄人夫婦の様な考えだったのかな?
ふたりは定位置に座る。そこの大将は以前はお硬い仕事をしていた様だが、今は完全に好々爺になっていて何時もの様に穏やかな笑顔で迎えてくれた。ところが普段と着ているものが違うのだ。真っ赤なシャツを着ていたのだ。背中に37と書いてある。カープのユニフォームなのである。
今日はマツダスタジアムで昼間巨人戦があった。それに家族で応援に行っていたそうだ。今日はマエケンが投げて10対0の完勝、クライマックスシリーズの出場も掛かっているので、俄然広島の街は盛り上がっている。そんな訳で大将も気分が悪かろうはずもない、何時にも増してヘラヘラしていた。(ちなみに背番号37は松山らしい。)
その店はチェーン店なのだが、大将の人柄がそうさせるのか良い意味でチェーン店臭さを感じさせない。まず清潔感がある。近頃バイトテロという卑劣な事件がニュースになっているが、そんな気配を微塵も感じさせない。仕事が実に丁寧である。チェーン店なので定番もあるが、オリジナルのメニューも数多い。それがどれも美味い。注文したのをたまに忘れるのはご愛嬌だが居心地が良い店なのである。
何時もの様に我々が店にいる時間は短い。客も増えて来たので早々に出た。安い店なので客の回転が勝負である、鉄人も商売をしているからそこら辺は心得ているつもりだ。
7月の末に計画していた焼き鳥デートがやっと実現した。デート代はかみさんが出した。俺はヒモかい?
posted by masa at 01:30| Comment(0)
| 日記
2013年09月13日
勉強不足。
「家路」
最近カメラの本を読んでいる。写真集ではなく、デジタルカメラの仕組みを体系的に学び直しているのだ。
写真教室の講師の仕事をたまにいただくのだが、もうひとつ自信が持てない。それは技術的なことではなく知識的なことだと分かって来た。
鉄人は現場の叩き上げの職人である。カメラの技術を実践でそれこそ皮膚感覚で学んで来た。それはそれで写真でメシを喰う上で最も大切なことだとは思うのだが、ではどれほど写真のことを知識として知っているかというと、正直雲行きが怪しくなるのだ。
タクシーの運転手が、車の仕組みを特に深く知らなくても運転は可能だ。大工が構造力学を別段学んでいなくても家は建てられる。カメラマンもカメラの仕組みやストロボの構造をそれほど知っていなくても写真は幾らでも撮れる訳だ。
だが知っていても損はないし、知っていた方が知識が経験に裏打ちされ更にレベルの高い作品を生むことにも成りうる可能性はある。また、写真講師をしている時は、生徒の質問に完璧に答えることができなければ、講師という仕事のプロではない。カメラマンと写真教室の講師は別の職業だと思うのだ。
そんな訳で「今さら誰にも訊けない何とやら」ではないが、恥ずかしながらカメラの仕組みの勉強を一からし直しているところなのである。
最近カメラの本を読んでいる。写真集ではなく、デジタルカメラの仕組みを体系的に学び直しているのだ。
写真教室の講師の仕事をたまにいただくのだが、もうひとつ自信が持てない。それは技術的なことではなく知識的なことだと分かって来た。
鉄人は現場の叩き上げの職人である。カメラの技術を実践でそれこそ皮膚感覚で学んで来た。それはそれで写真でメシを喰う上で最も大切なことだとは思うのだが、ではどれほど写真のことを知識として知っているかというと、正直雲行きが怪しくなるのだ。
タクシーの運転手が、車の仕組みを特に深く知らなくても運転は可能だ。大工が構造力学を別段学んでいなくても家は建てられる。カメラマンもカメラの仕組みやストロボの構造をそれほど知っていなくても写真は幾らでも撮れる訳だ。
だが知っていても損はないし、知っていた方が知識が経験に裏打ちされ更にレベルの高い作品を生むことにも成りうる可能性はある。また、写真講師をしている時は、生徒の質問に完璧に答えることができなければ、講師という仕事のプロではない。カメラマンと写真教室の講師は別の職業だと思うのだ。
そんな訳で「今さら誰にも訊けない何とやら」ではないが、恥ずかしながらカメラの仕組みの勉強を一からし直しているところなのである。
posted by masa at 22:42| Comment(0)
| 日記
2013年09月12日
免許更新。
「オート三輪」
三年に一度誕生日の前後になったらやらなければいけないことがある。免許の書き換えである。鉄人これが非常に面倒臭い。まああまり好きな人間はいないと思うが少々気が滅入るのは確かだ。
幸いなことに免許センターは鉄人の家から近い。車で10分足らずのところにある。当然遠くから来ている人もいる訳で、その人達は半日掛り一日掛りになる訳である。違反者はともかくそうでない人達にはこの時間的なロスは何とかならないものかとも思ってしまう。
で、鉄人は違反者か?そう違反者なのである。三年くらい前、一度ねずみ取りに捕まった。取り締まりの対象になるスピードを2キロばかりオーバーしていた。ところがそれをすっかり忘れていて、一般用の短い講習を受けたらすぐに帰れると高を括っていたのだ。
そうしたら「ペタン」と違反者用のハンコを押すではないか。「あれぇ〜、そうだったっけ?」思わぬ事態に落胆した鉄人は、他の違反者と共に2時間の違反者用の講習を受ける為スゴスゴと部屋に入るハメになった。
講習では当然交通事故の映像を観ることになる。大切なことなのだがやはり楽しい気分にはなれない。しかし何時何処で自分が加害者や被害者になるや分からないという現実は思い知らされる。帰りの運転が何時もより慎重になったことは間違いない。
ところであの免許証の写真、何であんなに悪人面に写るのだろう。そして三年間の自分の老化を痛切に感じる。顔の肌の張りが全然違う。自分が普段意識しているより遥かに「ジジイ」なのでる。髪の毛は後退し、眼の下の涙袋は情けなく垂れ下がっている。眼力も弱々しい。
だがこれは自然なことなのだ。またすべての生命が同じ様な道を辿る。仏陀は生命が老いていくことで直面しなければならない現実に正しく向き合う方法を教えられた。常に自分を冷静に観ることができる習慣は付きつつある。それでこころが落ち着くことができるのだ。有り難いことである。
さて次の更新まで無違反で通せるや否や。
三年に一度誕生日の前後になったらやらなければいけないことがある。免許の書き換えである。鉄人これが非常に面倒臭い。まああまり好きな人間はいないと思うが少々気が滅入るのは確かだ。
幸いなことに免許センターは鉄人の家から近い。車で10分足らずのところにある。当然遠くから来ている人もいる訳で、その人達は半日掛り一日掛りになる訳である。違反者はともかくそうでない人達にはこの時間的なロスは何とかならないものかとも思ってしまう。
で、鉄人は違反者か?そう違反者なのである。三年くらい前、一度ねずみ取りに捕まった。取り締まりの対象になるスピードを2キロばかりオーバーしていた。ところがそれをすっかり忘れていて、一般用の短い講習を受けたらすぐに帰れると高を括っていたのだ。
そうしたら「ペタン」と違反者用のハンコを押すではないか。「あれぇ〜、そうだったっけ?」思わぬ事態に落胆した鉄人は、他の違反者と共に2時間の違反者用の講習を受ける為スゴスゴと部屋に入るハメになった。
講習では当然交通事故の映像を観ることになる。大切なことなのだがやはり楽しい気分にはなれない。しかし何時何処で自分が加害者や被害者になるや分からないという現実は思い知らされる。帰りの運転が何時もより慎重になったことは間違いない。
ところであの免許証の写真、何であんなに悪人面に写るのだろう。そして三年間の自分の老化を痛切に感じる。顔の肌の張りが全然違う。自分が普段意識しているより遥かに「ジジイ」なのでる。髪の毛は後退し、眼の下の涙袋は情けなく垂れ下がっている。眼力も弱々しい。
だがこれは自然なことなのだ。またすべての生命が同じ様な道を辿る。仏陀は生命が老いていくことで直面しなければならない現実に正しく向き合う方法を教えられた。常に自分を冷静に観ることができる習慣は付きつつある。それでこころが落ち着くことができるのだ。有り難いことである。
さて次の更新まで無違反で通せるや否や。
posted by masa at 22:37| Comment(2)
| 日記
東京オリンピック。
「カヌー」
2020年のオリンピックが東京に決まった。決定の瞬間は鉄人は寝ていて知らなかった。今巷は大変な盛り上がり様である。
鉄人も関心がないかと言えばないことはない。国を挙げてのビッグイベントである。これからの7年間は様々な動きがあるであろうから、無関心ではいられないだろうし、直接的な影響も当然出てくると思われる。
でも正直言えばオリンピックの重要性があまり分からないのだ。元々はただのスポーツである。身体を動かす運動だ。誰かより0.01秒速かったとか、眼にも止まらぬスピードで三回転半したとか、1p遠くにものを投げたとか。それがどうして国レベルの凄いことなのか鉄人にはよく分からない。
写真判定しなければ勝敗が分からない時があるが、その差の何が凄いことなのかてんで分からないのである。鉄人自身もスポーツはするし、運動神経もそれなりにはある。テニス部のキャプテンをしていたこともあるが、スポーツは国を挙げてまでやることでもなさそうな気はする。最終的には個人の自己満足の世界であると思われるからである。
オリンピックにはインフラ整備であるとか関連商品の販売などで、多大な経済効果を生み出すという側面もある。150兆円という試算も成されている様だが、50年前の東京オリンピック以後の日本は、経済発展のひずみが近年様々な形で現れて来ているのも事実なのである。例えば道路やトンネル、橋などの老朽化、メンテナンスは緊急を要するが予算はなかなかつかない。何故なら莫大な予算がかかるから。
オリンピックには国民の感情を昂揚させる要素がある。それは確かに大きいが、反面冷静さを失いその勢いに流されてしまう危険性も捨てきれないと思う。オリンピックを免罪符にしてはならない。オリンピックという「お祭り」を国民が楽しむのは結構だが、常に冷静にものごとの動きを観察しておくことはもっと大切だと思うのである。ツケはオリンピック以降必ず来ると思っていた方が賢明だろう。
祭が済めば金は出さない。宴の後は空しいものなのだ。
オリンピック狂想曲はこれから止むことなく20年まで続くだろう。でもフクシマの声がその大音響で消されない様にしなければならない。と鉄人は思うのである。
2020年のオリンピックが東京に決まった。決定の瞬間は鉄人は寝ていて知らなかった。今巷は大変な盛り上がり様である。
鉄人も関心がないかと言えばないことはない。国を挙げてのビッグイベントである。これからの7年間は様々な動きがあるであろうから、無関心ではいられないだろうし、直接的な影響も当然出てくると思われる。
でも正直言えばオリンピックの重要性があまり分からないのだ。元々はただのスポーツである。身体を動かす運動だ。誰かより0.01秒速かったとか、眼にも止まらぬスピードで三回転半したとか、1p遠くにものを投げたとか。それがどうして国レベルの凄いことなのか鉄人にはよく分からない。
写真判定しなければ勝敗が分からない時があるが、その差の何が凄いことなのかてんで分からないのである。鉄人自身もスポーツはするし、運動神経もそれなりにはある。テニス部のキャプテンをしていたこともあるが、スポーツは国を挙げてまでやることでもなさそうな気はする。最終的には個人の自己満足の世界であると思われるからである。
オリンピックにはインフラ整備であるとか関連商品の販売などで、多大な経済効果を生み出すという側面もある。150兆円という試算も成されている様だが、50年前の東京オリンピック以後の日本は、経済発展のひずみが近年様々な形で現れて来ているのも事実なのである。例えば道路やトンネル、橋などの老朽化、メンテナンスは緊急を要するが予算はなかなかつかない。何故なら莫大な予算がかかるから。
オリンピックには国民の感情を昂揚させる要素がある。それは確かに大きいが、反面冷静さを失いその勢いに流されてしまう危険性も捨てきれないと思う。オリンピックを免罪符にしてはならない。オリンピックという「お祭り」を国民が楽しむのは結構だが、常に冷静にものごとの動きを観察しておくことはもっと大切だと思うのである。ツケはオリンピック以降必ず来ると思っていた方が賢明だろう。
祭が済めば金は出さない。宴の後は空しいものなのだ。
オリンピック狂想曲はこれから止むことなく20年まで続くだろう。でもフクシマの声がその大音響で消されない様にしなければならない。と鉄人は思うのである。
posted by masa at 01:04| Comment(0)
| 日記
2013年09月09日
誕生日。
「祝宴」
明日は鉄人の誕生日である。もう56回目だ。何時もなら当日家族でささやかな誕生日会をするのだが、今回は息子達の都合で今日になった。
かみさんが近くの小料理屋を予約していたのだが、鉄人そのことを全く知らない。かみさんに言わせればそのことをちゃんと話したそうだが記憶にない。六時半に予約しているからと言われて何の飲み会だろうへそくりを貯めていたのかなあ、まあいいや飲めるんならと内心ほくそ笑んだが、それは自分の誕生日会だったのである。
「お誕生日おめでとう!!」の合図もなく鉄人の誕生日会は始まった。家族全員自分の好きなものを頼んでただひたすら飲むか食べるだけである。鉄人と長男は酒を飲めるので、飲み助の常道として酒のつまみから行くのだが、かみさんと次男は酒をほとんど飲めない。のっけからご飯ものを欲しがる。足並みが揃わないのだ。
それでも行きつけの店であるから、大将を酒の肴にしながら何時もの楽しい宴会になった。写真は料理を全部食べた後思い出した様に写してくれと頼んだので料理が写っていない。大変に美味しい料理を出してくれるので申し訳なかった。
毎年のささやかな誕生日会だが、取りあえず付き合ってもらえるので実はこころから有り難いと思っている。
明日は鉄人の誕生日である。もう56回目だ。何時もなら当日家族でささやかな誕生日会をするのだが、今回は息子達の都合で今日になった。
かみさんが近くの小料理屋を予約していたのだが、鉄人そのことを全く知らない。かみさんに言わせればそのことをちゃんと話したそうだが記憶にない。六時半に予約しているからと言われて何の飲み会だろうへそくりを貯めていたのかなあ、まあいいや飲めるんならと内心ほくそ笑んだが、それは自分の誕生日会だったのである。
「お誕生日おめでとう!!」の合図もなく鉄人の誕生日会は始まった。家族全員自分の好きなものを頼んでただひたすら飲むか食べるだけである。鉄人と長男は酒を飲めるので、飲み助の常道として酒のつまみから行くのだが、かみさんと次男は酒をほとんど飲めない。のっけからご飯ものを欲しがる。足並みが揃わないのだ。
それでも行きつけの店であるから、大将を酒の肴にしながら何時もの楽しい宴会になった。写真は料理を全部食べた後思い出した様に写してくれと頼んだので料理が写っていない。大変に美味しい料理を出してくれるので申し訳なかった。
毎年のささやかな誕生日会だが、取りあえず付き合ってもらえるので実はこころから有り難いと思っている。
posted by masa at 22:13| Comment(6)
| 日記
Not-Self 無我2
「赤の残像」
Buddha made a distinction between ultimate truth and conventional truth. The idea of a self is merely a concept, a conventionーAmerican, Thai, teacher, student, all are conventions. Ultimately no one exists, only earth, fire, water, and airーelements that have combined temporarily. We call the body a person, my self, but ultimately there is no me, there is only anatta, not-self in your heart, the burden of life will be lifted. Your family life, your work, everything will be much easier. When you see beyond self, you no longer cling to happiness, and when you no longer cling to happiness, you can begin to be truly happy.
仏陀は最終的な真実と習慣的な真実を区別した。自分の考えというのはただの概念に過ぎない。アメリカ人、タイ人、教師、生徒などすべては習慣的なものである。それは最終的には存在しないものだ。大地、火、水、空気なども、ただ一時的に役に立つ要素なのである。我々は人間の身体を自分自身と呼ぶ。しかし最終的にはそれは自分ではない。それはアナッタ(無我)に過ぎないのだ。あなたのこころが無我を理解すると、人生の重い荷物をを持ち上げられるだろう。家族との人生、仕事、すべてはよりやり易くなる。あなたが自分自身を超えることを理解したら、あなたは幸福に長くは執着しない。そしてあなたが長く幸福に執着しなければ、本当の幸福になることを始められる。
無我を理解することは大切だと思う。自分が実体として存在しないと解れば、何事にも執着する必要がなくなるからだ。言ってみればこの世は幻の様なものである。最終的には何も掴めない。掴んだと思ってもそれはすぐにまたはやがて必ず消えていく。結局は何も残らないのである。
それならば何事にも囚われず静かに穏やかに生きていくことを説かれた仏陀の言葉に従うべきではないだろうか。我々が手に入れようともがいている幸福は一時的なものに過ぎない。それを得んが為に常に戦い悩み苦しんでいる。何事にも執着しないということは問題の種がないということ。問題が何もないとなれば苦しみは生まれないのである。それこそが本当の幸福だと仏陀は説かれた。
自分があると思うから、信じるから自分の身体へに執着が起きるのである。自分のものではない無我だと理解できればその執着は消えていく。消えれば苦しみも消える。それが出来るかどうかは自分次第だが、仏陀の教えには真理に対しての抗い様の無い論理性があることは確かだと思う。
Buddha made a distinction between ultimate truth and conventional truth. The idea of a self is merely a concept, a conventionーAmerican, Thai, teacher, student, all are conventions. Ultimately no one exists, only earth, fire, water, and airーelements that have combined temporarily. We call the body a person, my self, but ultimately there is no me, there is only anatta, not-self in your heart, the burden of life will be lifted. Your family life, your work, everything will be much easier. When you see beyond self, you no longer cling to happiness, and when you no longer cling to happiness, you can begin to be truly happy.
仏陀は最終的な真実と習慣的な真実を区別した。自分の考えというのはただの概念に過ぎない。アメリカ人、タイ人、教師、生徒などすべては習慣的なものである。それは最終的には存在しないものだ。大地、火、水、空気なども、ただ一時的に役に立つ要素なのである。我々は人間の身体を自分自身と呼ぶ。しかし最終的にはそれは自分ではない。それはアナッタ(無我)に過ぎないのだ。あなたのこころが無我を理解すると、人生の重い荷物をを持ち上げられるだろう。家族との人生、仕事、すべてはよりやり易くなる。あなたが自分自身を超えることを理解したら、あなたは幸福に長くは執着しない。そしてあなたが長く幸福に執着しなければ、本当の幸福になることを始められる。
無我を理解することは大切だと思う。自分が実体として存在しないと解れば、何事にも執着する必要がなくなるからだ。言ってみればこの世は幻の様なものである。最終的には何も掴めない。掴んだと思ってもそれはすぐにまたはやがて必ず消えていく。結局は何も残らないのである。
それならば何事にも囚われず静かに穏やかに生きていくことを説かれた仏陀の言葉に従うべきではないだろうか。我々が手に入れようともがいている幸福は一時的なものに過ぎない。それを得んが為に常に戦い悩み苦しんでいる。何事にも執着しないということは問題の種がないということ。問題が何もないとなれば苦しみは生まれないのである。それこそが本当の幸福だと仏陀は説かれた。
自分があると思うから、信じるから自分の身体へに執着が起きるのである。自分のものではない無我だと理解できればその執着は消えていく。消えれば苦しみも消える。それが出来るかどうかは自分次第だが、仏陀の教えには真理に対しての抗い様の無い論理性があることは確かだと思う。
posted by masa at 00:28| Comment(0)
| 日記
2013年09月07日
Not-Self 無我
「老人と海」
When one does not understand death, life can be very confusing. If our body really belonged to us, it would obey our commands. If we say,"Don't get old," or "I forbid you to get sick," does it obey us? No, it takes no notice. We only rent this house, not own it. If we thing it belongs to us, we will suffer when we have to leave ti. But in reality, there is no such thing as a permanent self, nothing solid or unchanging that we can hold on to.
死を理解しないと人生を大混乱させる場合がある。我々の身体が本当に我々のものなら、身体は我々の命令に従うはずである。歳を取りたくない。病気になりたくない。身体はそれに従うだろうか。我々に知らせることもなく歳を取り病気になる。我々は身体という家を借りているに過ぎない。我々のものではないのだ。我々がそれを自分のものだと思うなら、それが去る時我々は苦しむだろう。永遠の自分というものなどない。我々が持続出来る不変なものなどないのだ。
仏陀は「死」を理解していないと人生を混乱させると説かれている。我々が自分のものだと思っている自分の身体は自分のものではない。何故なら自分の思い通りにならないからだ。身体は歳を取り病気になって朽ち果てて最後は死を向かえる。これは身体というものの法則なのである。自分の意思ではどうにもならないことなのだ。
だが我々は普段身体は自分のものだと誤解して生きている。でも真実はそうではないのでそこに乖離が生まれ苦しむのである。だから人生を混乱させない様にする為には死を理解すること。無我であるということを理解することが何よりも大切なことだと仏陀は説かれたのである。
参考文献 A Still Forest Pool
When one does not understand death, life can be very confusing. If our body really belonged to us, it would obey our commands. If we say,"Don't get old," or "I forbid you to get sick," does it obey us? No, it takes no notice. We only rent this house, not own it. If we thing it belongs to us, we will suffer when we have to leave ti. But in reality, there is no such thing as a permanent self, nothing solid or unchanging that we can hold on to.
死を理解しないと人生を大混乱させる場合がある。我々の身体が本当に我々のものなら、身体は我々の命令に従うはずである。歳を取りたくない。病気になりたくない。身体はそれに従うだろうか。我々に知らせることもなく歳を取り病気になる。我々は身体という家を借りているに過ぎない。我々のものではないのだ。我々がそれを自分のものだと思うなら、それが去る時我々は苦しむだろう。永遠の自分というものなどない。我々が持続出来る不変なものなどないのだ。
仏陀は「死」を理解していないと人生を混乱させると説かれている。我々が自分のものだと思っている自分の身体は自分のものではない。何故なら自分の思い通りにならないからだ。身体は歳を取り病気になって朽ち果てて最後は死を向かえる。これは身体というものの法則なのである。自分の意思ではどうにもならないことなのだ。
だが我々は普段身体は自分のものだと誤解して生きている。でも真実はそうではないのでそこに乖離が生まれ苦しむのである。だから人生を混乱させない様にする為には死を理解すること。無我であるということを理解することが何よりも大切なことだと仏陀は説かれたのである。
参考文献 A Still Forest Pool
posted by masa at 21:44| Comment(0)
| 日記
2013年09月06日
間の悪い男達。
「赤鳥居」
世の中には間の悪い人間がいる。昨日の鉄人がそうだった。昨日宮島で朝から撮影があった。時間的にタイトな仕事だったので、たまたま休みだった次男をアシスタント代わりに連れて行った。
撮影は順調に進み午前中に終了した。昨日は午後から宮島の対岸にある宮浜温泉の有名旅館の撮影があったので、温泉の近くのラーメン店で昼食を摂ることにした。
そのラーメン屋でラーメン定食を頼んだのだがこれが凄いボリューム。その店はトラックの運転手やガテン系のお兄さん達がよく利用しているみたいで何しろ量が多い。彼らにとっては適量なのかもしれないがヘタレの親子はアズリまくる。
残すのは申し訳ないので頑張ったが撃沈、親子共々それ以上は一口も食べれず敗残兵の様に店を後にしたのだ。
昼から撮影する旅館は全国的にも有名で値段も高い。宿泊しなくても昼食と温泉の入浴のセットのサービスをしている。今回はその昼食の撮影である。落として割ったら撮影料などたちまち吹っ飛びそうな食器に、見事なばかりに盛りつけされた料理の数々が並んでいる。ちょっとした旅館の一泊代くらいの値段がするそうだ。
味は分からないがその料理を観ればこの旅館のレベルの高さと人気のほどが理解できる。撮影は無事に終わり次の撮影の為に帰り支度をしていたら、旅館の人が撮影した料理を食べてくださいと勧めてくれた。
撮影の仕事ではたまにあることなのだがこれほどの料理を勧められることは珍しい。本来なら貧乏人親子諸手を挙げて歓迎するケースなのだが例のラーメン屋を出た直後なのである。今にも鼻の穴からラーメンの麺が出てきそうな状態の時なのだ。何という間の悪さ!!
しかしクライアントの手前断る事は出来ない。親子でいただくことにした。特に息子は「あなたは若いんだから」とどんどん勧められる。息子の笑顔が引きつっている。
いただいた料理は本当に美味しいものであった。秋用の料理なので「松茸の土瓶蒸し」をメインに、刺し盛り、あなごのひつまぶし、和牛の何とか、ウニと何とか、その他何とか・・・、普段目にする事があまりないので名前が分からない何とか料理のオンパレードなのだ。これがすべて美味しい。味オンチの鉄人だって美味しいものは分かる。不味くても平気なだけである。
また量も多い。あなごのひつまぶしは茶碗三杯分あった。息子一杯、鉄人涙の二杯。他の料理もひとつひとつはさほどの量ではないが品数が多い。ふたりで譲り合いながら何とか完食。これでもし味が悪かったら絶対に完食など出来なかったであろう。
仏陀が説かれた「空腹は苦、満腹でも苦」。正に真理である。
間が悪い親子がその日の我が家の夕食に一切手を付けなかったのは言うまでもない。
世の中には間の悪い人間がいる。昨日の鉄人がそうだった。昨日宮島で朝から撮影があった。時間的にタイトな仕事だったので、たまたま休みだった次男をアシスタント代わりに連れて行った。
撮影は順調に進み午前中に終了した。昨日は午後から宮島の対岸にある宮浜温泉の有名旅館の撮影があったので、温泉の近くのラーメン店で昼食を摂ることにした。
そのラーメン屋でラーメン定食を頼んだのだがこれが凄いボリューム。その店はトラックの運転手やガテン系のお兄さん達がよく利用しているみたいで何しろ量が多い。彼らにとっては適量なのかもしれないがヘタレの親子はアズリまくる。
残すのは申し訳ないので頑張ったが撃沈、親子共々それ以上は一口も食べれず敗残兵の様に店を後にしたのだ。
昼から撮影する旅館は全国的にも有名で値段も高い。宿泊しなくても昼食と温泉の入浴のセットのサービスをしている。今回はその昼食の撮影である。落として割ったら撮影料などたちまち吹っ飛びそうな食器に、見事なばかりに盛りつけされた料理の数々が並んでいる。ちょっとした旅館の一泊代くらいの値段がするそうだ。
味は分からないがその料理を観ればこの旅館のレベルの高さと人気のほどが理解できる。撮影は無事に終わり次の撮影の為に帰り支度をしていたら、旅館の人が撮影した料理を食べてくださいと勧めてくれた。
撮影の仕事ではたまにあることなのだがこれほどの料理を勧められることは珍しい。本来なら貧乏人親子諸手を挙げて歓迎するケースなのだが例のラーメン屋を出た直後なのである。今にも鼻の穴からラーメンの麺が出てきそうな状態の時なのだ。何という間の悪さ!!
しかしクライアントの手前断る事は出来ない。親子でいただくことにした。特に息子は「あなたは若いんだから」とどんどん勧められる。息子の笑顔が引きつっている。
いただいた料理は本当に美味しいものであった。秋用の料理なので「松茸の土瓶蒸し」をメインに、刺し盛り、あなごのひつまぶし、和牛の何とか、ウニと何とか、その他何とか・・・、普段目にする事があまりないので名前が分からない何とか料理のオンパレードなのだ。これがすべて美味しい。味オンチの鉄人だって美味しいものは分かる。不味くても平気なだけである。
また量も多い。あなごのひつまぶしは茶碗三杯分あった。息子一杯、鉄人涙の二杯。他の料理もひとつひとつはさほどの量ではないが品数が多い。ふたりで譲り合いながら何とか完食。これでもし味が悪かったら絶対に完食など出来なかったであろう。
仏陀が説かれた「空腹は苦、満腹でも苦」。正に真理である。
間が悪い親子がその日の我が家の夕食に一切手を付けなかったのは言うまでもない。
posted by masa at 23:42| Comment(0)
| 日記
2013年09月02日
ホームシアター。
2001:a space odyssey
「2001: a space odyssey」邦題で「2001年 宇宙の旅」英語のタイトルの方がいい。邦題は楽しい宇宙旅行みたいである。odysseyはギリシャ神話の「叙事詩」の意味で映画の内容にも沿っている。
スタンリーキューブリック監督作のこの映画は40年以上も前に創られたものだが現在でもSF映画の最高峰とされている。鉄人も最も好きな映画のひとつである。もう何度も観ているのだがその度に感じ方が違う。難解だが映像は極めて美しく、もうこれ以上のSF映画が現れる可能性は低いと思われる。ところがこの映画を観た次男の感想、「展開がトロくて面白くない」人それぞれである。
この映画のテーマはふたつあると思う。ひとつは「コンピューターと人間」もうひとつは「輪廻転生」である。どちらも興味を引かれるものだ。ストーリーは誰もが観ている映画なのでここでは書かないが、今回鉄人が気が付いたキューブリックの演出は「呼吸」である。
コンピューターの反逆にあった宇宙飛行士が、そのコンピューターの意思を止める為に行動する場面がある。その時に聴こえて来るのが宇宙飛行士の「息づかい」だけなのだ。
粗い息づかいの音響効果で、その場面の緊張感を高めているのだが、鉄人の見方は多少違う。生命とそれ以外の違いは「呼吸の有無」にある。生命は何らかの形で呼吸をしている。それで動いているのだ。コンピューターが映っている場面は無音である。暗黒の宇宙の中での「呼吸の音」そこに「生命」を強く感じたのである。意思を持ったがコンピューターは呼吸をしない。はたして生命と呼べるや否や。でも映画では「死の恐怖」を訴える。いろいろ仕掛けの多い映画である。
たまにスタジオににわかシアターを作って映画を観る。映画も「妄想」の世界なれど、今回はなかなか面白かった。
「2001: a space odyssey」邦題で「2001年 宇宙の旅」英語のタイトルの方がいい。邦題は楽しい宇宙旅行みたいである。odysseyはギリシャ神話の「叙事詩」の意味で映画の内容にも沿っている。
スタンリーキューブリック監督作のこの映画は40年以上も前に創られたものだが現在でもSF映画の最高峰とされている。鉄人も最も好きな映画のひとつである。もう何度も観ているのだがその度に感じ方が違う。難解だが映像は極めて美しく、もうこれ以上のSF映画が現れる可能性は低いと思われる。ところがこの映画を観た次男の感想、「展開がトロくて面白くない」人それぞれである。
この映画のテーマはふたつあると思う。ひとつは「コンピューターと人間」もうひとつは「輪廻転生」である。どちらも興味を引かれるものだ。ストーリーは誰もが観ている映画なのでここでは書かないが、今回鉄人が気が付いたキューブリックの演出は「呼吸」である。
コンピューターの反逆にあった宇宙飛行士が、そのコンピューターの意思を止める為に行動する場面がある。その時に聴こえて来るのが宇宙飛行士の「息づかい」だけなのだ。
粗い息づかいの音響効果で、その場面の緊張感を高めているのだが、鉄人の見方は多少違う。生命とそれ以外の違いは「呼吸の有無」にある。生命は何らかの形で呼吸をしている。それで動いているのだ。コンピューターが映っている場面は無音である。暗黒の宇宙の中での「呼吸の音」そこに「生命」を強く感じたのである。意思を持ったがコンピューターは呼吸をしない。はたして生命と呼べるや否や。でも映画では「死の恐怖」を訴える。いろいろ仕掛けの多い映画である。
たまにスタジオににわかシアターを作って映画を観る。映画も「妄想」の世界なれど、今回はなかなか面白かった。
posted by masa at 13:31| Comment(0)
| 日記
2013年09月01日
ひとりたこ焼き。
「たこ焼き」
かみさんがテーブル越しにたこ焼きを焼いている。ひとりたこ焼きである。
今日は日曜、トーストとハムエッグの遅い朝食を摂った鉄人はサンデーモーニングのスポーツコーナーを観ていた。その時かみさんが突然卓上用たこ焼き機でたこ焼きを焼き始めたのだ。かみさんのもっと遅い朝食、いやブランチである。
鉄人は昼食も食べる、かみさんは食べない、その差だ。だが朝からひとりたこ焼きを始めるとは意外だった。どうしても食べたかったのだろうか。鉄人はあまりたこ焼きを食べない。お好みソースがあまり得意じゃないからだが食べれない訳じゃないので、朝食を食べる前に訊いてくれよとは思ったが。満腹じゃ食べれないじゃないか。
ともあれ目の前で無心にたこ焼きを焼いているかみさんの顔を観ていると何故か笑ってしまった。何の苦労もなさそうなその屈託のない表情に笑ってしまったのだ。勿論実際には苦労も心配事もある訳だが、人間好物を目の前にするとこんな表情になるんだなぁ〜とほっこりしてしまったのである。
多分その瞬間彼女は不幸という感覚はなかったはずだ。人間無心に自分が好きな事をしている時にはそれを特別幸福だとは認識しないかもしれないが、不幸だとは思わないと思う。
でもそれが本当は幸福なことではないかなと鉄人は思うのだ。津波で家族を亡くしたある少女が、「普段の何でもない当たり前のことが本当は物凄く幸せなことだった。」とテレビのインタビューで話していたことがある。
幸福を求め過ぎると逆に不幸になりやすい。常に不満足な精神状態になるからだ。目の前のたこ焼きは形も歪だしお店のたこ焼きほど美味しくないかもしれない。でもでもこうして自分の好きなたこ焼きを自分で焼きながら食べれる。何でもない様なことだけれど、これも幸福のひとつの形であるのかなと、鉄人はしみじみと思うのである。
かみさんがテーブル越しにたこ焼きを焼いている。ひとりたこ焼きである。
今日は日曜、トーストとハムエッグの遅い朝食を摂った鉄人はサンデーモーニングのスポーツコーナーを観ていた。その時かみさんが突然卓上用たこ焼き機でたこ焼きを焼き始めたのだ。かみさんのもっと遅い朝食、いやブランチである。
鉄人は昼食も食べる、かみさんは食べない、その差だ。だが朝からひとりたこ焼きを始めるとは意外だった。どうしても食べたかったのだろうか。鉄人はあまりたこ焼きを食べない。お好みソースがあまり得意じゃないからだが食べれない訳じゃないので、朝食を食べる前に訊いてくれよとは思ったが。満腹じゃ食べれないじゃないか。
ともあれ目の前で無心にたこ焼きを焼いているかみさんの顔を観ていると何故か笑ってしまった。何の苦労もなさそうなその屈託のない表情に笑ってしまったのだ。勿論実際には苦労も心配事もある訳だが、人間好物を目の前にするとこんな表情になるんだなぁ〜とほっこりしてしまったのである。
多分その瞬間彼女は不幸という感覚はなかったはずだ。人間無心に自分が好きな事をしている時にはそれを特別幸福だとは認識しないかもしれないが、不幸だとは思わないと思う。
でもそれが本当は幸福なことではないかなと鉄人は思うのだ。津波で家族を亡くしたある少女が、「普段の何でもない当たり前のことが本当は物凄く幸せなことだった。」とテレビのインタビューで話していたことがある。
幸福を求め過ぎると逆に不幸になりやすい。常に不満足な精神状態になるからだ。目の前のたこ焼きは形も歪だしお店のたこ焼きほど美味しくないかもしれない。でもでもこうして自分の好きなたこ焼きを自分で焼きながら食べれる。何でもない様なことだけれど、これも幸福のひとつの形であるのかなと、鉄人はしみじみと思うのである。
posted by masa at 11:58| Comment(0)
| 日記