2013年04月30日

掘り出し物。

「無執着」

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鉄人は古本が好きである。最近は大型の書店の中には古本コーナーがあるところもあるので、あれば必ず立ち寄る。先日のブログで、「医者に殺されない47の心得」という本を紹介したが、その時に古本も数冊購入していた。

古本屋に寄ると、思いも寄らない掘り出し物が出て来る時があるが、今回は有り難いことにその掘り出し物に出会った。そのお宝本は、「ブッダとシッタカブッダ」。四コマ漫画の本である。

普段漫画を読まないが、105円と安いし、何か仏陀のことが書いてあるみたいだから取りあえず買っておいた。リビングのソファに座り何気なくその本を開いて読んでみたら、これが無類に面白い。

内容は、仏陀の教えの数々を現代風な例を使って四コマ漫画で説いている。この表現方法が実に分かり易いのだ。経典は勿論素晴らしいのだが読むのは一苦労する。また繰り返し読む事もなかなかままならない。

ところが四コマ漫画だと一瞬にして読めるし、ビジュアルで見るので理解しやすいのだ。写真の四コマだが、執着しないことをたった四コマの絵の中で、ものの見事に表現している。落としたアイスには執着せず手に残ったコーンカップをむしゃむしゃ食べて楽しんでいる。

「これなんだよなぁ〜。」と納得。この感覚を文章で表現するならそれなりに字数もいるだろう。一瞬という訳にはいかない。他にも仏教をテーマにした沢山の四コマ漫画が載っている。どれも「う〜む。」と唸ってしまった。

作者は「小泉吉宏」。CMディレクターが本業らしい。また、この一連の本で賞も貰っているらしい。この人物はただ者ではないぞ。

たった105円(2冊買ったので210円)で学べ、こころが豊かになれた。どんな掘り出し物があるか分からない、やっぱり古本は良いのだ。
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2013年04月29日

ドライブ。

「森の昼食」

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今日はちょっと吉和までかみさんとドライブに出かけた。相変わらず体調は良くないのだが、気分転換もかねて吉和の山でも散策してみようと急遽思い立ったのだ。

今日はドライブや散策の気候としては申し分がない爽やかな日で、山々の新緑も存分に楽しめ確かに気分転換にはなった様だ。写真は、ドライブの途中で寄ったレストランでの昼食の一コマである。

そのレストランは、スリランカ料理を提供している有名なお店で、鉄人も耳にはしていたが初めての訪問である。ゴールデンの番犬に吠えられながら(歓迎している?)入店。森の中にある山小屋風のレストランで、お客さんも多い。写真の様に外にもテーブル席があり、気候が良いので外で食べる事にした。

注文したメニューはカレーである。沢山のカレーのメニューの中からテキトーに選ぶ。食べ比べる為かみさんとは違うものにする。テーブル席は美しい渓流の側にあり、店とかなり段差がある。夫婦で切り盛りしている店で、奥さんが料理を運んでいた。

忙しそうだったので鉄人がウェイターを勤める。店との段差に気を付けながら料理を運ぶ。一仕事した後の飯は美味い。一仕事せずともカレーは大変美味しかった。他のカレー屋さんとも自宅のカレーとも全然違う味。値段も手頃。店の名は「LAMP」、ぜひ再訪してみたい店のひとつになった。


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2013年04月28日

医者に殺されない47の心得

「田植えの頃」

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最近どうも体調が悪い。特別何処かが痛いとか熱があるとかではないのだが、元気がないのである。すぐ疲れるし頭がシャープでない。これが年のせいか何か病気なのかは定かでない。本来なら病院に行って検査を受けるべきであろう。

こんなタイトルの本がある。「医者に殺されない47の心得」。現役の医者が書いている。著者の名は「近藤 誠」。正確な肩書きは、慶応大学医学部講師である。現役の医者が、「医者に殺されない為の方法」を書いたことになる。

医者の立場からすれば完全に顛倒したこの本。読んでみる価値があると鉄人は判断した。鉄人くらいの年齢になると、程度の差はあれ身体の何処かが確実に悪くなってくる。それにどのように対処していくかはこれからの重要な課題になる。

鉄人は素人である。医学の事は分からない。医者はプロである。医学のことは分かっているはずである。ところが、この本を読み進めて行くうちに、それが実に怪しいものになってくるのだ。

どういうことかというと、病院に行けば行く程、検査を受ければ受ける程、薬をもらえばもらう程、病気が酷くなって行くという事実が、統計的に現れているからだ。

例えば、検査を受ける。我々くらいの年齢になれば何処かの数値は必ず悪い。するとそこを徹底的に治療することになる。投薬の場合もあるだろうし、手術の場合もあるであろう。ところがその治療の結果、検査を受けず治療をしなかったという様なケースより、状態が悪くなることが数多くあるのだそうだ。それがすべてのケースでは勿論ないであろうが統計として出ている。「病院によく行く人ほど、薬や治療で命を縮めやすい」という結果になるのである。

笑えない話しも出ている。40年前南米コロンビアで医者が一月半程ストライキをしたそうである。救急以外の医療活動がストップしたのにも関わらず、その間の死亡率が35%も下がっていたという事実である。他の国でも同じ様なストがあり、すべて死亡率が下がっていたそうである。これが事実なのだ。

我々はどうも学ぶ必要がありそうだ。医者の言う事をすべて信じてい良いのか、ということを。著者に言わせれば、「医者を疑い、自分で調べて考える。」というスタンスが大切なのだそうだ。これは、彼の仏陀が説かれたことと寸分違わない。

病気の9割は医者に掛かったからといって治る訳でも回復が早くなる訳でもないと、著者は説破している。このことを我々はもっと考えるべきではないのか。仏陀が説かれた様に「生老病死」は、自然の法則である。生命は、老い病気になりやがて死を向かえる。安らかに逝くということは「自然に死ぬ。」こと。今の医療制度でそれが可能なのかどうか。著者は警鐘を鳴らしている。
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2013年04月18日

ハモる。

「桜と古木」

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鉄人は鼻歌を結構歌う。家にいる時もそれをやるのだが、時折ハモってくる人物がいる。かみさんである。鉄人が何か歌っていると台所の方から同じ歌が聞こえて来る。

それは別に構わないのだが、歌うスピードが微妙に違うのだ。鉄人はどんな歌にも妙な小節がつく。ちょっとスローである。鼻歌だから自分勝手に歌うわけである。

ところがかみさんは、ちゃっちゃと歌う。すると歌がズレてくるのだ。これではハモれない。仕方なく鉄人は、先程まで気持ちよく歌っていた鼻歌を止める羽目になる。

鉄人が止めてもかみさんは自分の歌の様に続けて歌っている。そこで歌い足りない鉄人は違う歌を歌い出す。するとである。今度はその歌もかみさんはハモりだすのだ。歌うスピードが違うのでズレる。鉄人歌うのを止める。かみさんはまだ歌っている。嬉しそうに。

「あのなぁ〜。」
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2013年04月12日

Time passes fast.

「ひこうき雲」

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We who have come here to seek refuge in the Buddha, Dharma, and Sangha today find ourselves in this moment in time, which is passing by right before our eyes, as we sit here. It is as the Buddha taught: days and nights are relentlessly passing; how well are we spending our time? This is the speech of the Buddha, his very serious admonition to us to watch over ourselves. Still, some Buddhists let the days and nights pass without recollecting what they are doing that day, what they have done in the day past, or what they will do on the morrow. It is a mistake to let the time pass without employing mindfulness, to pay attention to whether we are doing good or causing harm, knowing whether our intentions and behavior are good or bad. Yet it is indeed rare to find individuals who think about this and have this kind of sensitivity.

昼と夜が容赦なく過ぎていく。どのように我々は時間を費やしているのだろうか?その日、自分が何をしていたのか思い出すことなく過ぎてしまうことがある。我々は過ぎ去った日、何をしていたのだろうか。我々は明日、何をするのだろうか。

注意深く自分の思いや行動に、気づくことが大切であると仏陀は説かれる。自分は精進しているか。悪いことを考えたり、行動したりしていないだろうか。善悪を知り、それに気づくのである。我々が我々自身を見守るのだ。

しかし、それについて考えたりする、その様な感受性を持つ者は希であると、仏陀は説かれてもおられる。
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2013年04月11日

「無我」を考察する。

「春彩々」

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仏教の最も根本的な教義に、「無常」「苦」「無我」という真理を悟る。というものがある。これらの真理を悟ることで、「貪欲」「怒り」「執着」を手放し平安なこころを得ることが可能になる。

「無常」や「苦」は、教えられたり本などを読めば、その時点でも何となくはそれが理解できる。ところが、残りの「無我」の理解は本当に難しいのだ。理論的には齟齬がなくても、「私というものは存在しない、無我である。」というのを本当の意味で理解する。悟るのは鉄人にとっては生半可なことではない。

「常に付いて回る自分。」、当たり前のことである。常に自分という存在があって、行動したり考えたりするのだ。こんな子供でも分かることを誰も論議はしない。ところがである。彼の仏陀が、「自分は何処にも存在しない、無我である。」と説かれているのだ。何故だ?

普段我々が知っているテーゼとは、真逆の顛倒した教義である。何故、無我なのか。無我とはどういうことか。我々が外部からの情報を得るのは、五つの感覚器官、目、鼻、舌、耳、体である。目でものを見る。鼻で匂いを感じる。舌で味わう。耳で音を聞く。そして体の接触。これ以外に外部から情報を得る手だてはない。そしてその情報を脳で理解したり、それによって思考したりする。

仏教では、これらの動きはそれぞれの感覚器官の機能、ファンクションの働きであり、そこに自分は存在しないと捉える。それぞれの器官が、各々の機能を使って、機能の範囲内で勝手にやっていることなのである。

例えば、「目でものを見る。」、最初は見たくないものでも見えていることがある。そこから脳が判断して見たくなければ目をそらしたり目をつぶったりする。当初目は勝手に自分の機能である「見る」という能力を使っているのである。

仏教では、思考や妄想でさえ感覚器官から流れて来た情報を使い、脳の機能が勝手にやっていることだと捉えている様である。確かに脳が機能してなければ、思考も妄想も出来ない。この様に、自分が考えているという疑いの余地もない程のことを、仏陀は否定されたのである。

理屈は何となく分かるのだが、やはり自分が存在しないというのはとても腑に落ちない。そこで鉄人は普段の生活の中で、すべては本当に「無我」なのかを考察し始めた。瞑想の時も勿論観察するのだが、瞑想の時間をとってしっかりやるというのは中々難しい。

そこで、普段の生活の中で、折りに触れ「今、自我が存在したか。」ということに意識を向かわせてみる。ある行動の時、集中して自我を探す。あらゆる行動は不可能だが、気づいた時には、その行動に対して「無我」を念頭に於いて観察してみるのだ。

その様な観察を普段続けていると、なるほど「自我」が見当たらない。それぞれの感覚器官が勝手にやっていることが分かって来る。その理解でさえ、脳のファンクションの働きに過ぎないことになるのだが。

鉄人は悟りを開いた訳ではない。ただ仏陀の教えに、言葉だけでなく体験に於いても抗えなくなっては来ている様である。

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2013年04月05日

結婚に向いてる男。

「里山に咲く」

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先日観たテレビ番組の中身がちょっと興味深かった。その番組は「ほんまでっかTV」。さんまが司会をしている番組だ。(鉄人、カトパンファンでもある。)

その週は、バツイチの女性タレントを集めて、好みのタイプの男性を選べさせ、それによって一番結婚に向かないタレントを決めるというものであった。

その中で二択により、「あなたのメールに必ず返信する男性。」もうひとつは、「メールを返信しないことがある男性。」そのどちらのタイプが結婚に向いている男性か。という質問を女性タレントにしていた。

鉄人は、メールの返信を必ずするタイプである。それが当たり前であると思っているからだ。当たり前のことを出来る男の方が結婚相手には向いているはずだと当然考えた。

ところが、選ばれたのは、「メールを返信しないタイプの男性が結婚に向いている。」の方であった。「何でやねん!」である。だが「メールをしない男。」が選ばれた理由が「なるほど」と関心させられるものだったのである。

彼女のメールに必ず返信をする男は、その行為を相手にも求めてくる。自分がこれだけのことをしているのだから、相手にも同じだけのことをしてもらいたい。するのが当然である。という風に考える向きがあるそうなのだ。

結婚してもその様な態度で相手に接して来るから、女性がしんどい思いをする様になる。だから結婚相手には不向きであると。

なるほど、これは一理ある。我々は自分がこれだけのことを相手にしているのだから、相手も同じだけのことをしてもらいたいという欲求があることが多い。だがその基準は人によって異なるので、そこに乖離が生まれ、それによって感情を害するケースが出て来るのではないかということである。

このことは鉄人自身にも当てはまるなあと思う。誰かに対してこれだけのことをしてる。でもそれだけのことをしてもらえない。不満足だ。コノヤロー、な〜んて。誰とはここでは言えないが。

勝手に基準を決めて、それに相手が合わせないと勝手に怒っている。怒って損するのは自分なのに・・・。愚かなのだ。

ということで、今後メールの返事は出さない様にする。・・・無理だな。



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2013年04月03日

桜の撮り方。

「桜降臨」

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今桜の花の時期なので、ちょっと桜の撮り方をアドバイス。桜の花は、最も日本人が好むポピュラーな花であるが、意外と撮りにくい。その理由としては、花の色が薄くて画面に締まりがないことがままある。枝や花が煩雑で画面がすっきりしない。皆が撮っているので、自分独自の個性が出しにくい。などである。

まず花の色であるが、桜の花の色は淡いピンクである。その淡いピンクを際立たせるには、背景に寒色系や濃い色を持って来ると花が目立ちやすい。

「空抜け」というテクニックがある。被写体の背景に空を持って来るのだ。桜の場合、雲が少ない青空だと花のピンクが目立って来る。しかし曇り空だと花と同じ様な感じなので目立ちにくい。

この空抜けのテクニックは、画面の整理にも有効である。桜の木は満開の時は花が多くてごちゃごちゃしてる。そこに単色の青である空を背景にすれば、花は目立つし背景もすっきりするのだ。

花を目立たせる他の方法は、光線を意識することである。太陽が自分の真後ろにある時、光は「順光」という状態になる。被写体に光がフラットに当たる状態である。

この場合、写真は撮りやすいのだが、少々平面的な写真になる。ちょっと面白くないのだ。そこで朝夕の斜光で撮ってみる。桜の木に立体感が出るのが分かる。夕方に撮ると赤っぽい光になるので、花びらのピンクが濃くなり、目立つ様になる。

画面の整理の他のテクニックは、例えばアップで撮りたい花の背景に別の花や枝がある場合、それを上手く画面上で整理することである。例えば枝が画面の中心に真っ直ぐ立っていたら、画面を二分してしまう。桜の木の枝は色が黒いので、太い枝はなるべく画面の端にある方が邪魔にならない。それと、枝が画面上で、真っ直ぐ縦だったり真横に横切ってたりすると画面に動きが出にくいからこれも注意。

背景に来る別の花も、同じピンク色なので主役の手前の花が目立ちにくくなる。なるべく重ならない様にする。重なる時は、後ろの花がボケる様に撮ると上手くいく。

最後は自分らしさである。桜の花は数えきれないほど撮られて来ているであろうから、どうしても何処かで見た様な写真になってしまいがちである。桜の木は逃げないので、木の周りをぐるぐる回ったり、背景に特徴的な何かを入れたりと、じっくり観察しながら撮影を楽しむと、面白い桜の写真が撮れる様な気がする。

ただ綺麗なだけの桜の写真じゃちょっと物足りないと思うのだ。
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2013年04月02日

無常。

「墓守桜」

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隣の集会所の桜も、一日降り続いた雨に打たれ散り始めた。今朝目が覚めた時に観た桜は満開だった。桜の花の盛りは本当に短い。留まるものなど何も無い。まさに「無常」なのである。

終わりは次の始まりである。次ぎに来る新緑の桜も桜なのだ。桜の一年のサイクルで言えば花は最後になる。まあこれも人間が決めたことだ。桜は葉を着け葉が散り花を咲かせる。それを枯れるまで繰り返すだけである。

日本人のリリカルな感情が、桜を春の主役にしているだけなのだが、真っ黒い幹と枝だけになった時も厳然と桜は其処に立っている。誰も振り向こうともしないけれど。

鉄人は花が好きである。写真の被写体になることも多い。特に菜の花と梅、桜が好きなのだが、好きという感情と同時にそれは物事の本質ではないことも常に意識している。

桜の花を綺麗だと感じる。何が綺麗なのだろうか。綺麗だと感じない人もいるだろうし、関心が無い人もきっといる。花が奇麗というのは、本質的なものではなくて、その人間の偏見に過ぎないはずだ。

花が散り、地面に落ちた花びらを誰かが踏みつぶす。もう綺麗だと感じないかもしれない。その花を構成している物質は何も変わらないはずなのに。

桜の花びらは薄ピンク色だと思う。でも朝観る花の色と雨の日の色、夕日が当たった時の色、どれも違う。色盲の人が観たら全然違う色かもしれないし、動物が観ても違うだろう。どれが本当の色?

普段我々が間違いないと思っていることでも、その本質を探していくと、普遍的な答えが出せなくなって来る。ひとつだけ経験的に言えることは、何一つ留まるものは無いこと。すべては「無常」だということである。



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