「冬の向日葵」 〜豊平にて〜
去年、我家の近くに本の大型店が出来た。今日時間があったの
で、その本屋にちょっと寄ってみた。鉄人が必ず直線的に向か
うのは「古本」のコーナーである。
最近は、この様な大型の本屋の一角に、古本を置いてあるケー
スがある。鉄人は昔から古本が何故か好きで、街の中に古本屋
が多く点在していた頃は、特に様もないのによく立ち寄ったも
のだ。
立ち寄っても、全く食指が動かない時もあるが、今日は結構収
穫があった。数冊買い込んだのだが、その中に特に気になった
本が一冊あった。それは「断捨離」をテーマにした本である。
「断捨離」という言葉だけは以前から知っていた。何か掃除や
整理整頓の事を言っている言葉だと思っていた。あながち完全
な間違いではなかったが、意外にもっと奥が深かったのだ。
「断捨離」という言葉は「造語」である。クラター・コンサル
タントという肩書きを持つ「やましたひでこ」という方が提唱
している。
「断捨離」とは、「モノを捨て、片づけることで、こころのガ
ラクタもスッキリ整理し、人生をごきげんに変える」ことらし
い。
鉄人が普段学んでいる仏教の教義にも繋がることだったので、
早速読み始めた。ところが数ページ読んだ頃にはもう読書を止
めていた。何故か?鉄人は突然「断捨離」を実際にやり始めた
のである。
その読んだ数ページの中に、鉄人が気に入った一文がある。そ
れがこれである。
「片づけとは、片をつけること」、つまり「使わないモノと決
着をつけ、きっちり始末をつける」ということだ。この一文が
気に入った。
気に入った鉄人は、早速始末つけの実践に入ったのである。目
を着けたのは、ふたつの整理ボックスである。狭い事務所のス
ペースをかなり占領していて、普段から邪魔な思いをしていた
。
そこでこの際、不要になった書類は捨てようと思い立ったのだ
。出てくる出てくる、中には10年以上も前の伝票や領収書ま
である。整理してどうなったか。何と!整理ボックスの中にあ
った書類の9割を始末したのである。
必要だった書類は、僅か1割。全く必要のない書類が入った整
理ボックスが長年の間、事務所の一角を占領していたのだ。「
断捨離」した鉄人自身が唖然としたほどである。
おまけがある。かみさんが以前から整理ボックスを欲しがって
いた。たまたま買いそびれていたのだが、空いた整理ボックス
が使える。これは5,000円ばかし儲かった。早速「断捨離
」の効果を実感した次第である。
このブログを書き終わったら、ゆっくりこの本を読むつもりだ
。315円、この古本は捨てられない様である。
2012年01月21日
断捨離。
posted by masa at 23:23| Comment(0)
| 日記
2012年01月14日
一歩前進。
「雪化粧」 〜湯来町にて〜
広島の地に精舎を建てようという計画があることを、先日ブロ
グに書いたが、候補の家が見つかった。
建てるといっても新しい建物を建てる訳ではなく、借家を探し
ていたのである。元より新築の精舎を建てる資金などあるはず
もなく、皆が集まりやすい便利な借家を探していたのだ。
それがひょんなことからその候補の借家が見つかった。広島ダ
ンマサークルの代表の佐藤さんが、サークルのメンバーに、今
回の件を話したところ、メンバーのひとりから、自分の家を貸
してもいいという申し出があったのだ。
その家は現在、そのメンバーの方はお住まいになっておらず借
家になっている。家は人が借りて住んでいたのだが、実はその
借り主がこの一月で引っ越すことになったのである。
数日前に家が空き、今日はメンバー達とその家を見学に行って
いた。その家は、最寄りの駅から歩いて一分の閑静な住宅地の
中にあった。
築数十年は経っている大分古い家だったが、何しろ広い。二階
の広間は三十人くらいは座れそうだ。人が集まる精舎としては
、十分にその役割を果たしそうである。
また大家であるメンバーの方は、現状維持での使用なら、敷金
も免除してもいいと仰ってくれている。こんなに有難い話はな
い。
実はお坊様の住まいを探すのは結構大変なのだ。お坊様の本当
の姿を知らない一般の人は、宗教が絡んでいる様な人へ家を貸
すのを、そのイメージだけで嫌がるケースは少なくない。
ましてや日本人でもないので、それを理解してもらい家を貸し
てもらう為のハードルは相当高いものになる。今回の広島に精
舎を作るという話でも、その実現の為には、家は一番のネック
だったのだ。
それが一番身近な人から家を貸してもいいという申し出があっ
た訳である。おまけに借り主が、これ以上ないというタイミン
グで引っ越した。何年も借りていた人である。「縁」の不思議
さをあらためて感じている。
精舎を実現させる為に、つぎにクリアするべき条件は、当然資
金面である。家賃並びに生活費、これを毎月確実に捻出しなけ
ればならない。
サークルには熱心なメンバーが揃っているが数が多いとはいえ
ない。これから先長い話になるので、どうすれば無理がない範
囲で各メンバーに協力してもらえるか、それが今後の思案のし
どころになってくる。
何につけ、何かをスタートさせた黎明期には、様々な苦労は付
きものである。ただ広島に精舎が本当に必要なものなら、必ず
や「縁」が後押ししてくれると思っている。因縁因果は法則だ
からだ。
皆のお陰でまた「一歩前進」した。次のステップに粛々と進ん
でいきたい。焦らずとも善行を積めば、どんな形にせよいずれ
は善い結果が必ず生まれるものと信じている。
広島の地に精舎を建てようという計画があることを、先日ブロ
グに書いたが、候補の家が見つかった。
建てるといっても新しい建物を建てる訳ではなく、借家を探し
ていたのである。元より新築の精舎を建てる資金などあるはず
もなく、皆が集まりやすい便利な借家を探していたのだ。
それがひょんなことからその候補の借家が見つかった。広島ダ
ンマサークルの代表の佐藤さんが、サークルのメンバーに、今
回の件を話したところ、メンバーのひとりから、自分の家を貸
してもいいという申し出があったのだ。
その家は現在、そのメンバーの方はお住まいになっておらず借
家になっている。家は人が借りて住んでいたのだが、実はその
借り主がこの一月で引っ越すことになったのである。
数日前に家が空き、今日はメンバー達とその家を見学に行って
いた。その家は、最寄りの駅から歩いて一分の閑静な住宅地の
中にあった。
築数十年は経っている大分古い家だったが、何しろ広い。二階
の広間は三十人くらいは座れそうだ。人が集まる精舎としては
、十分にその役割を果たしそうである。
また大家であるメンバーの方は、現状維持での使用なら、敷金
も免除してもいいと仰ってくれている。こんなに有難い話はな
い。
実はお坊様の住まいを探すのは結構大変なのだ。お坊様の本当
の姿を知らない一般の人は、宗教が絡んでいる様な人へ家を貸
すのを、そのイメージだけで嫌がるケースは少なくない。
ましてや日本人でもないので、それを理解してもらい家を貸し
てもらう為のハードルは相当高いものになる。今回の広島に精
舎を作るという話でも、その実現の為には、家は一番のネック
だったのだ。
それが一番身近な人から家を貸してもいいという申し出があっ
た訳である。おまけに借り主が、これ以上ないというタイミン
グで引っ越した。何年も借りていた人である。「縁」の不思議
さをあらためて感じている。
精舎を実現させる為に、つぎにクリアするべき条件は、当然資
金面である。家賃並びに生活費、これを毎月確実に捻出しなけ
ればならない。
サークルには熱心なメンバーが揃っているが数が多いとはいえ
ない。これから先長い話になるので、どうすれば無理がない範
囲で各メンバーに協力してもらえるか、それが今後の思案のし
どころになってくる。
何につけ、何かをスタートさせた黎明期には、様々な苦労は付
きものである。ただ広島に精舎が本当に必要なものなら、必ず
や「縁」が後押ししてくれると思っている。因縁因果は法則だ
からだ。
皆のお陰でまた「一歩前進」した。次のステップに粛々と進ん
でいきたい。焦らずとも善行を積めば、どんな形にせよいずれ
は善い結果が必ず生まれるものと信じている。
posted by masa at 21:54| Comment(8)
| 日記
2012年01月08日
「清浄道論」を買ってはみたものの。
「初期仏教コーナー」 〜ダンマサークル貸し出し用〜
アマゾンで「清浄道論1」を購入した。以前より興味は抱いて
いたのだが、多少高価なのと内容が難しそうなので逡巡してい
た。
届いた本を手に取っていささか面食らう。まず分厚い。大きさ
はB6サイズくらいだが、500ページ近くある。そして文体
が古い。初版が1937年、75年も前の本である。
今では使われていない漢字も多く、正直読み辛い。おまけにO
D版なので印刷が鮮明でない。画数の多い漢字は文字が潰れか
けている。
正月に読んでみようと考えていたが、知恵熱が出そうで、風邪
を引いている身には厳しいと判断、現在、机の隅に鎮座して出
番を待っておられる。
鉄人は、蔵書のタイプを二種類に分けている。ひとつは普段読
みするもの。もうひとつは普段はあまり眼を通さないが、何か
の折りに読むもの。
後者の場合、例えばお坊様の説法を拝聴して、調べたい経典が
出てきたとする。そういう時に、普段は読まない分厚い原始仏
典の本をおもむろに広げ、その経典のところを通読する。
そうすれば、お坊様の説法を復習出来、その時の説法をより深
く理解出来ることにもなると思っている。今回手に入れた「清
浄道論」も、そのような使われ方になりそうだ。本当は熟読し
て、その内容を知り尽くすべきではあろうけれども。
本は物体である。文字が印刷された複数の紙を綴じたものが本
という物体である。でも文字がバラバラなら、ただの黒い模様
だし、その文字がアラビア語で書かれたものなら、鉄人にとっ
てはやはりただの模様に過ぎない。それを自分にとって本と呼
べるかどうか。
最近英語を学び始めたが、英文もまだまだ模様に近い。今回の
様に、和文でさえ普段お目にかからない文字は模様みたいなも
のだ。
読めて、意味もある程度分る。それで初めてその読者にとって
「本」と呼べる代物になる。出来れば、読むこと自体にはあま
り苦労したくないというのいが本心である。
難しい文字や文章を滞りなく読む為には、当然その為の知識が
必要になる。しかしその知識が、鉄人にとって本当に必要なも
のかどうかとなると少々考える。
「読みやすい方が良いなあ〜」と思う。難解な文章を通読する
時間、それを理解するまでにかかる時間、無駄とは言えないが
勿体ない気がする。読みやすければ、それだけ時間を短縮出来
るから。
鉄人が、スマナサーラ長老の一連の本やアーチャン・チャー大
僧正の「手放す生き方」などを何度も愛読しているのは、内容
もさることながら、読みやすいからである。
特に「手放す生き方」は素晴らしく、訳された星飛雄馬氏,花
輪陽子女史、花輪俊行氏には、それこそ「手放し」で感謝した
い。
「清浄道論」も、もっと分りやすい文章なら良いのになあと本
気で思う訳だ。ただ自分が真剣に学びたいのなら、自らがその
道を切り開いていくのも当然といえば当然のことで、その為の
努力を惜しんではならないとも確かに思う。
アーチャン・チャー大僧正の英文の著書を読みたいと思って、
独学で英語を始めた。今度は古い日本語を学ぶ必要を感じてい
る。自分が勝手にしていることだから、結果が欲しけりゃつべ
こべ言わず勉強するしかない訳である。チャンチャン。
アマゾンで「清浄道論1」を購入した。以前より興味は抱いて
いたのだが、多少高価なのと内容が難しそうなので逡巡してい
た。
届いた本を手に取っていささか面食らう。まず分厚い。大きさ
はB6サイズくらいだが、500ページ近くある。そして文体
が古い。初版が1937年、75年も前の本である。
今では使われていない漢字も多く、正直読み辛い。おまけにO
D版なので印刷が鮮明でない。画数の多い漢字は文字が潰れか
けている。
正月に読んでみようと考えていたが、知恵熱が出そうで、風邪
を引いている身には厳しいと判断、現在、机の隅に鎮座して出
番を待っておられる。
鉄人は、蔵書のタイプを二種類に分けている。ひとつは普段読
みするもの。もうひとつは普段はあまり眼を通さないが、何か
の折りに読むもの。
後者の場合、例えばお坊様の説法を拝聴して、調べたい経典が
出てきたとする。そういう時に、普段は読まない分厚い原始仏
典の本をおもむろに広げ、その経典のところを通読する。
そうすれば、お坊様の説法を復習出来、その時の説法をより深
く理解出来ることにもなると思っている。今回手に入れた「清
浄道論」も、そのような使われ方になりそうだ。本当は熟読し
て、その内容を知り尽くすべきではあろうけれども。
本は物体である。文字が印刷された複数の紙を綴じたものが本
という物体である。でも文字がバラバラなら、ただの黒い模様
だし、その文字がアラビア語で書かれたものなら、鉄人にとっ
てはやはりただの模様に過ぎない。それを自分にとって本と呼
べるかどうか。
最近英語を学び始めたが、英文もまだまだ模様に近い。今回の
様に、和文でさえ普段お目にかからない文字は模様みたいなも
のだ。
読めて、意味もある程度分る。それで初めてその読者にとって
「本」と呼べる代物になる。出来れば、読むこと自体にはあま
り苦労したくないというのいが本心である。
難しい文字や文章を滞りなく読む為には、当然その為の知識が
必要になる。しかしその知識が、鉄人にとって本当に必要なも
のかどうかとなると少々考える。
「読みやすい方が良いなあ〜」と思う。難解な文章を通読する
時間、それを理解するまでにかかる時間、無駄とは言えないが
勿体ない気がする。読みやすければ、それだけ時間を短縮出来
るから。
鉄人が、スマナサーラ長老の一連の本やアーチャン・チャー大
僧正の「手放す生き方」などを何度も愛読しているのは、内容
もさることながら、読みやすいからである。
特に「手放す生き方」は素晴らしく、訳された星飛雄馬氏,花
輪陽子女史、花輪俊行氏には、それこそ「手放し」で感謝した
い。
「清浄道論」も、もっと分りやすい文章なら良いのになあと本
気で思う訳だ。ただ自分が真剣に学びたいのなら、自らがその
道を切り開いていくのも当然といえば当然のことで、その為の
努力を惜しんではならないとも確かに思う。
アーチャン・チャー大僧正の英文の著書を読みたいと思って、
独学で英語を始めた。今度は古い日本語を学ぶ必要を感じてい
る。自分が勝手にしていることだから、結果が欲しけりゃつべ
こべ言わず勉強するしかない訳である。チャンチャン。
posted by masa at 22:56| Comment(0)
| 日記
2012年01月07日
寝正月。
「年賀状」
一月も大分経ち、正月気分も抜けてきた。今年の鉄人の正月は
、寝正月であった。風邪を引いての・・・。
年末年始、宮島で撮影をしていたのだが、元旦の初日の出の撮
影に同行していた息子が風邪を引いていて、それを欲しくもな
いのに貰ってしまったのだ。
鉄人は見かけに寄らず体が弱い。ただその分、風邪などに掛か
らない様に注意をしている。例えば家人が風邪を引いていたら
、別の部屋に隔離する。家人には悪いのだが、ベストの体調で
仕事をしたいが為である。
ところが今回、風邪引きの息子と同行した為、車の中かロープ
ウェイのゴンドラの中で、風邪を貰った様だ。
困ったことに、元日は撮影が終わった後、かみさんの実家に二
人で帰省する予定になっていた。それが鉄人が風邪を引いた為
急遽延期・・・、にはならなかった。
実家大好きのかみさんは、鉄人が風邪を引いたくらいでは許し
てくれない。家中にある風邪薬をかき込んで家を出た。
かみさんの実家に到着した頃には、鉄人の風邪の症状が本格的
になってきた。ご両親への新年の挨拶もそこそこに離れへ隔離
された。
隔離されたというより自ら出向いたのだ。ご両親はお元気だが
ご高齢である。風邪くらいと舐めてはいけない、それが引き金
で大病になる可能性は否定出来ないからだ。風邪を移さない為
には、隔離されるのが一番の得策だと考えたのだ。
三日に広島に戻ったのだが、その間、ご両親とも遊びに来てい
たかみさんの親戚達とも一度も一緒に食事をしなかった。愛想
無しで申し訳ないとは思ったが、風邪というお年玉を差し上げ
るよりマシだと思い、離れに終日隠遁していた訳である。
今日は六日の夜である(日付は七日に変わっている)、まだ風
邪が完治していない。仕事も出来無いくらい酷くはならないの
だが、意外にしつこい。
年始から割と忙しく、九日にはメインイベントのひとつ、成人
式の晴着の撮影がある。失敗が絶対に出来ない、時間的にも極
めてタイトな撮影なので、毎年非常に神経を使う。
体調が万全でも撮影が終わると腑抜けになるくらい疲れる。だ
からそれまでに何としても風邪を治したいのだが。
ところで、せっかく風邪を引いたのだから(?)、その身体的
状態や精神的な状態に対して「念」を入れてみた。今読んでい
る「ミャンマーの瞑想」の「名色分離智慧」を意識しながらや
ってみようと考えたのだ。
結果としては、まだまだ実践せねばという思いである。体調が
悪いと「念」がなかなか続かない。「念」を入れるのさえしん
どいということが分った。修行不足なのである。
取りあえず、ブログが書けるまでは体調が回復してきた、完治
は近い様だ。ところが何と、今度はかみさんが風邪を引いてし
まった。多分犯人は鉄人である。何処でお年玉を上げたかは、
定かではない。
一月も大分経ち、正月気分も抜けてきた。今年の鉄人の正月は
、寝正月であった。風邪を引いての・・・。
年末年始、宮島で撮影をしていたのだが、元旦の初日の出の撮
影に同行していた息子が風邪を引いていて、それを欲しくもな
いのに貰ってしまったのだ。
鉄人は見かけに寄らず体が弱い。ただその分、風邪などに掛か
らない様に注意をしている。例えば家人が風邪を引いていたら
、別の部屋に隔離する。家人には悪いのだが、ベストの体調で
仕事をしたいが為である。
ところが今回、風邪引きの息子と同行した為、車の中かロープ
ウェイのゴンドラの中で、風邪を貰った様だ。
困ったことに、元日は撮影が終わった後、かみさんの実家に二
人で帰省する予定になっていた。それが鉄人が風邪を引いた為
急遽延期・・・、にはならなかった。
実家大好きのかみさんは、鉄人が風邪を引いたくらいでは許し
てくれない。家中にある風邪薬をかき込んで家を出た。
かみさんの実家に到着した頃には、鉄人の風邪の症状が本格的
になってきた。ご両親への新年の挨拶もそこそこに離れへ隔離
された。
隔離されたというより自ら出向いたのだ。ご両親はお元気だが
ご高齢である。風邪くらいと舐めてはいけない、それが引き金
で大病になる可能性は否定出来ないからだ。風邪を移さない為
には、隔離されるのが一番の得策だと考えたのだ。
三日に広島に戻ったのだが、その間、ご両親とも遊びに来てい
たかみさんの親戚達とも一度も一緒に食事をしなかった。愛想
無しで申し訳ないとは思ったが、風邪というお年玉を差し上げ
るよりマシだと思い、離れに終日隠遁していた訳である。
今日は六日の夜である(日付は七日に変わっている)、まだ風
邪が完治していない。仕事も出来無いくらい酷くはならないの
だが、意外にしつこい。
年始から割と忙しく、九日にはメインイベントのひとつ、成人
式の晴着の撮影がある。失敗が絶対に出来ない、時間的にも極
めてタイトな撮影なので、毎年非常に神経を使う。
体調が万全でも撮影が終わると腑抜けになるくらい疲れる。だ
からそれまでに何としても風邪を治したいのだが。
ところで、せっかく風邪を引いたのだから(?)、その身体的
状態や精神的な状態に対して「念」を入れてみた。今読んでい
る「ミャンマーの瞑想」の「名色分離智慧」を意識しながらや
ってみようと考えたのだ。
結果としては、まだまだ実践せねばという思いである。体調が
悪いと「念」がなかなか続かない。「念」を入れるのさえしん
どいということが分った。修行不足なのである。
取りあえず、ブログが書けるまでは体調が回復してきた、完治
は近い様だ。ところが何と、今度はかみさんが風邪を引いてし
まった。多分犯人は鉄人である。何処でお年玉を上げたかは、
定かではない。
posted by masa at 01:09| Comment(0)
| 日記
2012年01月01日
明けましておめでとうございます。
「初日の出」 〜安芸の宮島にて〜
皆様、明けましておめでとうございます。
最近、何やら公私とも忙しく、大晦日の昨日は、撮影の為、宮
島の山の中を彷徨していた。宮島の弥山は、海抜五百メートル
を少し越えるくらいの山だが、原生林が広がり、観光客が通る
道以外は、意外に危険である。
危険な理由のひとつは、急斜面が多いということ、後、地面が
実に脆い。また、原生林の保護の為、樹木の伐採が禁止されて
いるので、至る所で倒木がそのままになっている。獣道さえ見
つけるのは困難だ。そんな場所で、斜面にへばりつく様にして
、広告用の風景の撮影をしていた。
元日の今日も、これから撮影がある。同じ宮島での撮影だが、
弥山の山頂まで登り、初日の出を撮影する仕事なのだ。残念な
がら天気予報はあまり芳しくない。ただ不思議なことに、宮島
での初日の出の撮影は、これまで何度かあったが、これまでも
予報が悪かったにも関わらず、撮影は成功している。日頃の行
いが善いので(?)何とかなるさ?
さて、今日は元日なので、一応今年の目標を決めたい。
今年の目標
・広島にテーラワーダ教の精舎を作る。
・瞑想のスタイルを確立させる。
・英文の仏教書を読める様に勉強する。
・英会話がほどほど出来る様に勉強する。
・五戒をより完璧に守る。
・震災への支援を続ける。
・遊びでフルマラソンに出てみる。
くらいかな?仕事の目標がない・・・取りあえず人並みには儲
かる様にする。
英会話の入門編をやっていたら、文法をまるっきり忘れている
のを痛感。入門どころか、門前払いである。で、今、中学の英
文法をやっている。基礎が出来ていないのに家を建てても倒れ
るだけである。急がば回れの心境だ。
ブログを更新するペースが遅くなっているが、今年も続けてい
きたい。
今年も宜しくお願いします。
皆様、明けましておめでとうございます。
最近、何やら公私とも忙しく、大晦日の昨日は、撮影の為、宮
島の山の中を彷徨していた。宮島の弥山は、海抜五百メートル
を少し越えるくらいの山だが、原生林が広がり、観光客が通る
道以外は、意外に危険である。
危険な理由のひとつは、急斜面が多いということ、後、地面が
実に脆い。また、原生林の保護の為、樹木の伐採が禁止されて
いるので、至る所で倒木がそのままになっている。獣道さえ見
つけるのは困難だ。そんな場所で、斜面にへばりつく様にして
、広告用の風景の撮影をしていた。
元日の今日も、これから撮影がある。同じ宮島での撮影だが、
弥山の山頂まで登り、初日の出を撮影する仕事なのだ。残念な
がら天気予報はあまり芳しくない。ただ不思議なことに、宮島
での初日の出の撮影は、これまで何度かあったが、これまでも
予報が悪かったにも関わらず、撮影は成功している。日頃の行
いが善いので(?)何とかなるさ?
さて、今日は元日なので、一応今年の目標を決めたい。
今年の目標
・広島にテーラワーダ教の精舎を作る。
・瞑想のスタイルを確立させる。
・英文の仏教書を読める様に勉強する。
・英会話がほどほど出来る様に勉強する。
・五戒をより完璧に守る。
・震災への支援を続ける。
・遊びでフルマラソンに出てみる。
くらいかな?仕事の目標がない・・・取りあえず人並みには儲
かる様にする。
英会話の入門編をやっていたら、文法をまるっきり忘れている
のを痛感。入門どころか、門前払いである。で、今、中学の英
文法をやっている。基礎が出来ていないのに家を建てても倒れ
るだけである。急がば回れの心境だ。
ブログを更新するペースが遅くなっているが、今年も続けてい
きたい。
今年も宜しくお願いします。
posted by masa at 01:33| Comment(0)
| 日記
2011年12月25日
小商い。
「開運路 尚子」 〜拙宅玄関にて〜
今日かみさんに、店の写真を撮ってくれと頼まれた。実はかみ
さん自宅の玄関で小商いをやっている。
美容と健食の類いだが、その店というのが上記の写真がそれな
のだ。玄関脇の棚に、商品がショボショボと置いてある。その
横に関連の書籍がまたショボショボ置いてある。
カメラ側にももうひとつ小さな棚があるのだが、以上終わりの
何ともショボイ店なのだ。おまけに店主が大概店に居ない。や
る気があるのかさえ疑わしい店だが、既に15年くらい続いて
いる。
取り扱っている商品は、「銀座まるかん」の商品のみ。「銀座
まるかん」といえば、サプリの「スリムドカン」が有名だが、
商品以上に、その社長の「斉藤一人」氏の方が有名かもしれな
い。
以前、個人納税日本一を続けていたことで、巷でもよく知られ
ている。しかしマスコミや人前に出ることは皆無に近く、知名
度が高い割には、その人物像が分っていない謎めいた人でもあ
る。
その斉藤一人氏の大ファンなのである、うちのかみさんが。元
々は、鉄人がビジネス書の位置づけとして、斉藤氏の本を以前
よく読んでいた。
その流れで、かみさんも彼の本を読んだりCDを聴いているう
ちに鉄人以上にファンになってしまった。鉄人は、仏教を知っ
たことで、「斉藤一人」は卒業したが、かみさんは今でもファ
ンというより信者のままである。
写真の様にショボイ店なので、当然売上もショボイ。そのショ
ボイ売上の利益は、すべてまるかんの商品を使うことで消えて
しまう。何のことはない、「銀座まるかん」の最大の顧客は、
かみさんなのである。
商品は使ってくれる。次いでに商品を売ってくれる。おまけに
信者だから絶対に浮気しない。これ以上の客はいないのである
。
しかし牛の涎の如く小商いを続けていたからか、かみさんは斉
藤一人氏から直筆の書を貰っている。写真の中の額装された書
がそれである。
達筆かどうか判断が難しい書だが、文面にかみさんの名前が入
っている。かみさんにとってみれば、教祖からのプレゼントみ
たいなものなので、嬉しくないはずはない。
流石に現代の大商人に相応しい、人心の機微を心得た何とも憎
い演出である。
今回の店の写真は、「まるかん」のホームページに載せる為の
ものであるが、実はこの写真を撮る為と称して、朝から鉄人は
玄関の掃除をやらされている。
まあ大掃除の時期だから、掃除はしますけれども、彼女の店で
ある。鉄人のフィールドであるスタジオは、毎日の様に水拭き
までやっている、他人の店でも掃除を始めれば手は抜けない質
なのだ。
最近、「片付け」がブームの様だが、真似をしてみた。壁中に
貼ってあった商売用のポスターやチラシの類いを、全部剥がし
て捨ててしまったのだ。
かみさんはいささか不満そうであったが、黄ばんだポスターな
ど逆効果だ。全部剥がしたらすっきりした空間になった。とき
めかないものは捨てるに限るというフレーズが流行だが、真理
かも。
余談だが、かみさんに言わせると、彼の斉藤一人氏と鉄人は顔
が似ているそうだ。何でこんなに違うのか。あくまで余談であ
る。
今日かみさんに、店の写真を撮ってくれと頼まれた。実はかみ
さん自宅の玄関で小商いをやっている。
美容と健食の類いだが、その店というのが上記の写真がそれな
のだ。玄関脇の棚に、商品がショボショボと置いてある。その
横に関連の書籍がまたショボショボ置いてある。
カメラ側にももうひとつ小さな棚があるのだが、以上終わりの
何ともショボイ店なのだ。おまけに店主が大概店に居ない。や
る気があるのかさえ疑わしい店だが、既に15年くらい続いて
いる。
取り扱っている商品は、「銀座まるかん」の商品のみ。「銀座
まるかん」といえば、サプリの「スリムドカン」が有名だが、
商品以上に、その社長の「斉藤一人」氏の方が有名かもしれな
い。
以前、個人納税日本一を続けていたことで、巷でもよく知られ
ている。しかしマスコミや人前に出ることは皆無に近く、知名
度が高い割には、その人物像が分っていない謎めいた人でもあ
る。
その斉藤一人氏の大ファンなのである、うちのかみさんが。元
々は、鉄人がビジネス書の位置づけとして、斉藤氏の本を以前
よく読んでいた。
その流れで、かみさんも彼の本を読んだりCDを聴いているう
ちに鉄人以上にファンになってしまった。鉄人は、仏教を知っ
たことで、「斉藤一人」は卒業したが、かみさんは今でもファ
ンというより信者のままである。
写真の様にショボイ店なので、当然売上もショボイ。そのショ
ボイ売上の利益は、すべてまるかんの商品を使うことで消えて
しまう。何のことはない、「銀座まるかん」の最大の顧客は、
かみさんなのである。
商品は使ってくれる。次いでに商品を売ってくれる。おまけに
信者だから絶対に浮気しない。これ以上の客はいないのである
。
しかし牛の涎の如く小商いを続けていたからか、かみさんは斉
藤一人氏から直筆の書を貰っている。写真の中の額装された書
がそれである。
達筆かどうか判断が難しい書だが、文面にかみさんの名前が入
っている。かみさんにとってみれば、教祖からのプレゼントみ
たいなものなので、嬉しくないはずはない。
流石に現代の大商人に相応しい、人心の機微を心得た何とも憎
い演出である。
今回の店の写真は、「まるかん」のホームページに載せる為の
ものであるが、実はこの写真を撮る為と称して、朝から鉄人は
玄関の掃除をやらされている。
まあ大掃除の時期だから、掃除はしますけれども、彼女の店で
ある。鉄人のフィールドであるスタジオは、毎日の様に水拭き
までやっている、他人の店でも掃除を始めれば手は抜けない質
なのだ。
最近、「片付け」がブームの様だが、真似をしてみた。壁中に
貼ってあった商売用のポスターやチラシの類いを、全部剥がし
て捨ててしまったのだ。
かみさんはいささか不満そうであったが、黄ばんだポスターな
ど逆効果だ。全部剥がしたらすっきりした空間になった。とき
めかないものは捨てるに限るというフレーズが流行だが、真理
かも。
余談だが、かみさんに言わせると、彼の斉藤一人氏と鉄人は顔
が似ているそうだ。何でこんなに違うのか。あくまで余談であ
る。
posted by masa at 23:15| Comment(0)
| 日記
2011年12月22日
名著の予感。

今ある本を読んでいる。「ミャンマーの瞑想」というタイトル
の本である。
実はこの本、アマゾンに注文して二ヶ月経っても届かなかった
という曰く付きの本なのだ。最終的には、「お届け出来ません
」というアマゾンからのメールが入っていた。
「ナンダそりゃ?」と思ったのだが、それには理由があった。
この本、新装していたのである。鉄人の注文のタイミングが悪
く以前の本が手に入らなかったのだろう。
ともあれこの度、新装版の「ミャンマーの瞑想」を、また凝り
もせずアマゾンで注文。何と今度は、注文して二日目に届いた
。一度目は、ものすごく待たされてとうとう届かず、今度は注
文して二日で届く。この落差に口ポカンであったが、この本が
凄そうなのだ。
自分にとって名著となり得る本は、読み初めから予感がする。
最近では、アーチャン・チャー大僧正の「手放す生き方」がそ
れである。スマナサーラ長老の著書の中にも、鉄人の価値観を
根底から覆した名著が多数ある。
今回の「ミャンマーの瞑想」という本も、それに当たりそうな
のだ。表紙の帯に推薦人の言葉があった。推薦人は、あの小池
龍之介氏である。「えっ」、正直大丈夫かなとちょっと不安に
なる。
しかし本文に入ると、その不安は一蹴された。第一章のタイト
ルは、「ヴィパッサナー瞑想の前に」である。
そしてそののっけからの超弩級の言葉が出てくる。
心構え
現世で「道」「果」「涅槃(悟り)」を自覚し、それを獲得す
るために本格的な修行をしたい方は、修行の邪魔となりそうな
すべての用事を済ませ、一切の世俗に対する執着を断っておか
ねばなりません。
要するに本気なら出家しろということになる。覚悟の程を問う
ているのだ。それだけ真剣な修行が必要だということだが、逆
に言えばその覚悟が出来ているのならば、道は開けていること
でもある。
この一文で、この本の本気度が完全に伝わってきた。こちらに
も読む心構えが生まれたのである。
今、本の中程まで読み進めている。感想はまたに機会に譲るが
、やはり凄い。在家の鉄人でも十分に参考になる内容である。
本文で紹介されている瞑想の方法を、今実際に試している。や
ってみなければ感覚が掴めない。簡単に言えば、寝ている時以
外、一時も休まず「念を入れる」、起きている時のすべての行
為や感覚に対して気づくということを繰り返すのである。それ
をもう徹底してやるのだ。
これは一見簡単そうだが、完璧に実践するには、とてつもなく
ハードルが高そうである。そしてその「念じる」ことから、現
段階では考えられない様な、深い観察と実践がもたらす仏教へ
の理解が生まれるそうである。
鉄人は、この本に因縁があり出会っている。この本は、鉄人に
今後どのような影響をもたらすであろうか。先を読むのが楽し
みである。
posted by masa at 22:04| Comment(0)
| 日記
2011年12月14日
凄いことになるかも。

凄いことになってきた。スリランカ人の初期仏教のお坊様に、
広島に住んでいただけけるかも、という話が浮上しているのだ
。
現在、二ヶ月に一度の割合で、当スタジオでお坊様方の説法会
を開いている。毎回、二十名から三十名ほどの参加者がおり、
初期仏教に対しての感心の高さが伺われる。しかしお坊様方は
、東京や福岡など遠方からお越しいただくことになり、その度
にご不便をお掛けしていることになる。
またご説法を、二ヶ月に一度しか拝聴出来ないので、学びの為
にも、もう少し機会を増やしたいのが本心でもある。そんな折
り、住居と生活費の工面が付けば、初期仏教のお坊様に、広島
に住んでいただけるかもしれないという話が出てきたのだ。
これはとんでもないことなのだ。お坊様といっても長老レベル
の方々である。長老と呼ばれるには、経験、能力、人格などが
極めて優れている方々でないと成れない。そのことは、長老の
方々とお話をさせていただくと、そのレベルの高さに直ぐに納
得が出来る。おまけにその長老レベルの方々は、日本にはほん
の数えるほどしかおられないのだ。
そんな希少で貴重な長老様が、条件さえ揃えば、広島に住んで
いただけるかもしれない訳で、これは直ちに、それに向けての
行動に移らなければと考えた次第である。
スリランカ人の初期仏教の長老様が常在されているところは、
広島県にはない。どころか、中国地方、四国にもたぶんない。
だからもし、今回の話が実現したら、中四国地方で初めての試
みになるのである。(鉄人が知る限り)
これは大変なことになってきた。というのが、今の鉄人の正直
な感想である。初期仏教は本物である。それに異を唱える人物
がいたとしても、長老と呼ばれる方々の桁外れの博識ぶりや無
欲の生活態度を見れば、それに関しては認めざるをえない。
その紛うことない聖人が、広島の地に居を構えることになれば
、鉄人ならずともその存在価値は、今後の広島にとっても甚だ
大きいものになるに違いないと思うのだ。
その実現の為の行動の一端を、鉄人が担っているのも不思議な
ことである。学歴も無い、社会的地位も無い、財産も無い、取
り立てて特筆すべきものが何も無い名もなき人間が、新しい歴
史を作るお手伝いをするかもしれない。
大袈裟だとは思わない。それほど初期仏教は価値のあるものだ
と確信しているからである。広島の地で、様々な人が初期仏教
に直接触れることで、その後の人生の価値観に大転換をもたら
す可能性は極めて大きい。自分自身もそうだったからである。
そして小さな一石は、やがて大きな波紋となり広がっていくこ
とだろう。何か歯車が動き出した、そんな感覚がある。そして
この動き出した歯車は、もっと大きな歯車も動かすに違いない
。そしてその動きは、何時までも止まらない様な気がしている
のである。
posted by masa at 00:39| Comment(6)
| 日記
2011年12月11日
ダンマサークル。
「アーユボーワン(さようなら)」 〜スタジオ前にて〜
今日は月一の広島ダンマサークルの日であった。福岡よりデニ
ヤーイェ長老をお招きして説法をしていただいた。残念ながら
、鉄人は、突然の仕事が入り、午後も2時過ぎてからの参加に
なってしまった。なので、折角の長老の法話も聴けず終い。仕
事とはいえ勿体ないことをしてしまった。
ただ幸いなことに、会の代表の佐藤さんが長老の法話を録音し
てくれていたのだ。有難いことである。そんなこともあり、長
老の法話は直接拝聴出来なかったのだが、その分、今日参加し
たサークルの仲間を観察してみた。
長老様方を招いての説法会も大分回を重ねてきた。参加者の顔
ぶれも固定してきた様だ。山口や岡山からの参加者もおられ、
その熱心さには頭が下がる。
そして皆を観察していて気がついたのだが、参加者の様子が説
法会を始めた頃と明らかに違う。何処が違うのかと言えば、皆
一様に落ち着いているのだ。ひとりひとり個性はあるのだが、
皆以前より確かに落ち着いている。
説法会を重ねてきて、それを元に各々で日々実践を繰り返す。
その成果により、初期仏教に対する揺るぎない確信を得たから
に違いない。初期仏教に対しての「疑」、疑いのこころが消え
てしまったのだ。
修行の成果を上げる為には、「疑」は禁物である。しかしその
「疑」を消し去る為には、初期仏教が本物かどうかを調べてい
く為の、違う意味での「疑」が必要になる。
ややこしいのだが、要するに自分で学び確かめて、初期仏教に
対する「疑」を消し去ることが大切なのである。自分でろくに
調べもしないで、誰かが良いと勧めたからと信じてしまう。有
名人の本に書いてあることだからと、疑いもしないで信じる。
この様な行為が「愚」であると、ブッダは説破されている。
ダンマサークルのメンバーは、自らが学び確かめた上で、「疑
」を消し去ったのである。だから彼らの「三宝」、いわゆる「
仏・法・僧」への帰依は揺るがなくなる。不安や不信が無くな
れば、こころは落ち着くのである。
会のメンバーは落ち着いているし、穏やかである。これだけ会
を重ねても、メンバーが、不満や不快な様子を見せたケースが
一度もない。これは他人が集まる集会という環境の中で、希有
なことではないだろうか。
会の雰囲気が良いのは、参加者の人格も勿論あるが、参加者の
ひとりひとりが自立していることにも、その要因はあると思う
。
長老様方の説法会が開かれれば、それを聴きたい人々が集まっ
てくる。しかしその行動は、長老様方に縋ろうとするものでは
ない。説法を拝聴して、そのダンマを、自分の修行に役立てよ
うとする為の行動なのだ。
彼のクリシュナムルティが説いた様に、集団での真理の探求は
有り得ない。あくまでも「個」、ひとりひとりがダンマの探求
をするしかないのだと思う。
だから、会のメンバーと争ったり張り合ったり、また自説をね
じ込んだりする必要など何処にもないのである。「涅槃」を目
的とした同じ仏教徒として、一緒に学ぶ機会がある時には一緒
に学ぶ。それだけなのである。
仏教徒は、こころを清浄にしていき、渇愛から離れる為に日々
修行をしている。日々怠らず修行をしているのなら、間違いな
く以前よりはこころがキレイになっているはずである。それが
ブッダの教えだからだ。
会のメンバーも例外ではない。これだけ熱心なメンバー達なの
だ。誰よりも修行をしているに違いない(在家レベルとして)
。そんな、こころが清浄になってきているメンバーの中にいて
、不満や不快な気持になるはずがないと、鉄人は思うのである
。
今日は月一の広島ダンマサークルの日であった。福岡よりデニ
ヤーイェ長老をお招きして説法をしていただいた。残念ながら
、鉄人は、突然の仕事が入り、午後も2時過ぎてからの参加に
なってしまった。なので、折角の長老の法話も聴けず終い。仕
事とはいえ勿体ないことをしてしまった。
ただ幸いなことに、会の代表の佐藤さんが長老の法話を録音し
てくれていたのだ。有難いことである。そんなこともあり、長
老の法話は直接拝聴出来なかったのだが、その分、今日参加し
たサークルの仲間を観察してみた。
長老様方を招いての説法会も大分回を重ねてきた。参加者の顔
ぶれも固定してきた様だ。山口や岡山からの参加者もおられ、
その熱心さには頭が下がる。
そして皆を観察していて気がついたのだが、参加者の様子が説
法会を始めた頃と明らかに違う。何処が違うのかと言えば、皆
一様に落ち着いているのだ。ひとりひとり個性はあるのだが、
皆以前より確かに落ち着いている。
説法会を重ねてきて、それを元に各々で日々実践を繰り返す。
その成果により、初期仏教に対する揺るぎない確信を得たから
に違いない。初期仏教に対しての「疑」、疑いのこころが消え
てしまったのだ。
修行の成果を上げる為には、「疑」は禁物である。しかしその
「疑」を消し去る為には、初期仏教が本物かどうかを調べてい
く為の、違う意味での「疑」が必要になる。
ややこしいのだが、要するに自分で学び確かめて、初期仏教に
対する「疑」を消し去ることが大切なのである。自分でろくに
調べもしないで、誰かが良いと勧めたからと信じてしまう。有
名人の本に書いてあることだからと、疑いもしないで信じる。
この様な行為が「愚」であると、ブッダは説破されている。
ダンマサークルのメンバーは、自らが学び確かめた上で、「疑
」を消し去ったのである。だから彼らの「三宝」、いわゆる「
仏・法・僧」への帰依は揺るがなくなる。不安や不信が無くな
れば、こころは落ち着くのである。
会のメンバーは落ち着いているし、穏やかである。これだけ会
を重ねても、メンバーが、不満や不快な様子を見せたケースが
一度もない。これは他人が集まる集会という環境の中で、希有
なことではないだろうか。
会の雰囲気が良いのは、参加者の人格も勿論あるが、参加者の
ひとりひとりが自立していることにも、その要因はあると思う
。
長老様方の説法会が開かれれば、それを聴きたい人々が集まっ
てくる。しかしその行動は、長老様方に縋ろうとするものでは
ない。説法を拝聴して、そのダンマを、自分の修行に役立てよ
うとする為の行動なのだ。
彼のクリシュナムルティが説いた様に、集団での真理の探求は
有り得ない。あくまでも「個」、ひとりひとりがダンマの探求
をするしかないのだと思う。
だから、会のメンバーと争ったり張り合ったり、また自説をね
じ込んだりする必要など何処にもないのである。「涅槃」を目
的とした同じ仏教徒として、一緒に学ぶ機会がある時には一緒
に学ぶ。それだけなのである。
仏教徒は、こころを清浄にしていき、渇愛から離れる為に日々
修行をしている。日々怠らず修行をしているのなら、間違いな
く以前よりはこころがキレイになっているはずである。それが
ブッダの教えだからだ。
会のメンバーも例外ではない。これだけ熱心なメンバー達なの
だ。誰よりも修行をしているに違いない(在家レベルとして)
。そんな、こころが清浄になってきているメンバーの中にいて
、不満や不快な気持になるはずがないと、鉄人は思うのである
。
posted by masa at 23:51| Comment(0)
| 日記
2011年12月08日
悪筆。
「棚田の春」 〜筒賀・仁井の棚田にて〜
昨日の夕方、鉄人は礼状を書いていた。先日結婚式の二次会の
撮影を頼まれた、鉄人の次男の元友人に宛ててである。
撮影のデータが整理出来たので、郵送するDVDと一緒に封筒
の中に入れるつもりで礼状を書いていた。のだが、これが相当
難儀した。
礼状は僅か一枚である。文章も十行程の甚だ簡潔な内容だ。そ
れなのに何枚も便箋を無駄にし、考えられない程時間も掛かっ
てしまった。
字が上手く書けないのだ。何度書いても失敗してしまう。字の
形は変になるし、脱字はする。何故か手が言うことを聞かない
。気持は急くし、気が滅入ってくる。了いには書くのが嫌にな
ってしまった。
鉄人、字はそんなに下手な方ではない。上手くはないが他人に
見せられないという程ではない。平均的な技量だと思う。とい
うか思っていた。
ところが全然上手く書けないのである。手が本当に言うことを
聞かないのだ。一年の間で、鉄人が字を書く機会はほんの僅か
である。年賀状と暑中見舞いくらいだ。それ以外の一年の大半
の日は、字を全く書いていないことになる。
長ったらしいブログを書くときも、キーを指で押すだけ、手を
使って実際に字を書く訳ではない。普段に全くと言っていい程
字を書いていないと、いざ実際に字を書く段になると、自分の
手が文字を書くことを忘れてしまっている。
結果、自分の想いとは甚だかけ離れたヘンテコな文字が、便箋
の上で蠢いてしまう醜態を晒す。「こんなはずじゃない」「も
っと上手く書けるはずだ」
書けないのである。こんなはずじゃないと自己弁護しても、書
けないものは書けない。想い通りに動いてくれない体は自分の
ものか、自分のものなら想い通りに動いてくれるはずである。
ブッダはこころさえ自分のものではないと説かれている。どう
足掻いてもこころも自分の想い通りにならないことは明白であ
る。そして自分自身さえ実体は無いということに気がついてい
く。やはり「無我」は「真理」だとしか思えない。
よく音楽家が練習を一日休むと、元の状態に戻すのに何日も掛
かるということを聞いたことがある。写真も数日撮影していな
いと感覚が鈍るのは間違いない。どの世界もそうであろう。勿
論字を書くのも同じである。
考えてみれば、普段ほとんど字を書いていなければ、上手い字
など掛けるはずがないのだ。下手で当たり前、そんなに気にす
ることでもない。上手く字を書きたければ、やはり毎日字を書
く訓練が必要になってくる。それだけのことである。
昨日の夕方、字が上手く書けなくて半泣きになっていた鉄人は
、自分の現状を冷静に観察出来ていなかったことになる訳で、
普段その為に行なっている修行が、全然役に立たなかったこと
になる。
まだまだ甘い鉄人である。
昨日の夕方、鉄人は礼状を書いていた。先日結婚式の二次会の
撮影を頼まれた、鉄人の次男の元友人に宛ててである。
撮影のデータが整理出来たので、郵送するDVDと一緒に封筒
の中に入れるつもりで礼状を書いていた。のだが、これが相当
難儀した。
礼状は僅か一枚である。文章も十行程の甚だ簡潔な内容だ。そ
れなのに何枚も便箋を無駄にし、考えられない程時間も掛かっ
てしまった。
字が上手く書けないのだ。何度書いても失敗してしまう。字の
形は変になるし、脱字はする。何故か手が言うことを聞かない
。気持は急くし、気が滅入ってくる。了いには書くのが嫌にな
ってしまった。
鉄人、字はそんなに下手な方ではない。上手くはないが他人に
見せられないという程ではない。平均的な技量だと思う。とい
うか思っていた。
ところが全然上手く書けないのである。手が本当に言うことを
聞かないのだ。一年の間で、鉄人が字を書く機会はほんの僅か
である。年賀状と暑中見舞いくらいだ。それ以外の一年の大半
の日は、字を全く書いていないことになる。
長ったらしいブログを書くときも、キーを指で押すだけ、手を
使って実際に字を書く訳ではない。普段に全くと言っていい程
字を書いていないと、いざ実際に字を書く段になると、自分の
手が文字を書くことを忘れてしまっている。
結果、自分の想いとは甚だかけ離れたヘンテコな文字が、便箋
の上で蠢いてしまう醜態を晒す。「こんなはずじゃない」「も
っと上手く書けるはずだ」
書けないのである。こんなはずじゃないと自己弁護しても、書
けないものは書けない。想い通りに動いてくれない体は自分の
ものか、自分のものなら想い通りに動いてくれるはずである。
ブッダはこころさえ自分のものではないと説かれている。どう
足掻いてもこころも自分の想い通りにならないことは明白であ
る。そして自分自身さえ実体は無いということに気がついてい
く。やはり「無我」は「真理」だとしか思えない。
よく音楽家が練習を一日休むと、元の状態に戻すのに何日も掛
かるということを聞いたことがある。写真も数日撮影していな
いと感覚が鈍るのは間違いない。どの世界もそうであろう。勿
論字を書くのも同じである。
考えてみれば、普段ほとんど字を書いていなければ、上手い字
など掛けるはずがないのだ。下手で当たり前、そんなに気にす
ることでもない。上手く字を書きたければ、やはり毎日字を書
く訓練が必要になってくる。それだけのことである。
昨日の夕方、字が上手く書けなくて半泣きになっていた鉄人は
、自分の現状を冷静に観察出来ていなかったことになる訳で、
普段その為に行なっている修行が、全然役に立たなかったこと
になる。
まだまだ甘い鉄人である。
posted by masa at 23:03| Comment(2)
| 日記
